物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

「どうかな?」、と思う科学用語:レム睡眠、地震のS、P波

睡眠中に「金縛り」にあったという人の話はよく聞く。『ステキな金縛り』という三谷幸喜監督の映画もあるが、実際のところ、霊には関係ない。そんなに霊さんも暇ではない。ちょっと調べてみると、「金縛り」は睡眠障害の一種らしい。人間の睡眠にはレム睡眠というのがあり、その間は身体のコントロールができなくなっている。つまり神経もオフの状態。しかし、通常は意識も睡眠中のためそのオフの状態が意識されないだけである。ところが、身体が極度に疲れていたり睡眠不足のときには、身体はレム睡眠状態だが意識がオフになっていないことが起こる。このとき、からだがコントロールできない状態にあることが意識されてしまう。これが「金縛り状態」である。

ところで、このレム睡眠という用語、ずっと神秘的だと思っていた。「レム」というのは、身体の運動神経と意識がオフになっているということに関係したラテン語かなにかだろうか?

実は、

レム=Rapid Eye Moving=高速眼球運動。

レム睡眠状態は、眼球が高速に動いていることが臨床的(現象論的)特徴である。それで、Rapid Eye Movingの頭文字をとって、REM!

身体のコントロールがオフになっている、という本質と無関係の用語である。

このような、ちょっと深遠そうで実は「べた」という科学用語が他にもある。地震波はS波とP波があり、P波が最初に来て次にS波が来る。S波による揺れが大きい。高校の地学でならったとき、どちらが先にくるのか覚えないといけなかった。P波は縦波、S波は横波である。P、Sという文字は縦波、横波、ということの連想に結びつかない。したがって、これらの相関関連をよく考えないといけない、あまり自明な問題ではなかった。(今では、岩石を収縮・膨張させる方がずれさせるよりも力が余計にかかるから、縦波のP波の方が早く来るんだな、と理解できる。)

しかし、実は、P波のPはPrimaryの頭文字、S波のSはSecondaryの頭文字である。だから、P波が第一の波だから最初に来るのは当たり前で、S波は二番目だから次に来る。これを知ったのは高校を出て何年もたった30歳代になってからである。それを知ったときのショックを今でも覚えている。地震学の先生、あまりに用語が「べた」ではないですか!

REM睡眠はそれに匹敵するショックな科学用語である。

医学とか、地震学とか、発展段階が現象論的な段階が長い学問は用語が現象論的になる傾向があるのであろう。実体論的段階に至ると、もう少し内容が見える用語になる。

物理の場合、現象論的段階の例としては、たとえば、「核力」がある。核を結び付けている力!まさに「べた」である。それが「湯川の中間子理論」という実体論になり、一旦「強い相互作用」という概念に現象論的に再整理された後、より下の階層の物質を想定する「クォーク模型」が導入され新たな実体論的段階を経て、最後に「量子色力学QCD」に止揚され本質論に至った。

米映画「The Reader(愛の朗読者)」

7,8年前飛行機の中でたまたま観た映画。おもしろくなければ他のを、と考えていたのだけれど、ぐんぐん引き込まれて2時間以上のこの映画を最後まで観てしまった。ヒロインのハンナ・シュミットを演じていたのは、1975年生まれのKate Winslet。これでアカデミー主演女優賞を得ている。原作者はドイツフンボルト大学法学部教授Berhard Schlink。原作は世界的ベストセラーだそうだ。ナチ犯罪に関わった、いや、関わらざる得なかった戦前のドイツ市民、市井の人々、その人たちと深く関わって共に生き、生活する戦後世代がそのような市井の人々の犯罪を裁くことの意味、不条理、欺瞞。ハンナ・シュミットユダヤ人大量焼死の責任者でその証拠にその報告書を書いたとされ終身刑を受けるが、実は文盲であった。読めも書くこともできない。さらに、この映画では、年齢の離れた男女の間の恋愛が描かれており、しかも50年以上もの時のながれを描いているために、人生の意味を、短さを考えさせずにはおかない。出所する日に自殺したハンナ・シュミットの人生は何だったのか?なぜ自殺したのか?何に絶望して?この映画を見終わった後何時間もこの映画のことが頭を離れなかった。

「秀才」の陥穽

院生の頃言われたのは、馬鹿な質問ができないといけない、ということ。これは二重の意味があって、主体的に、馬鹿な質問かなと思っても勇気を出して質問できるぐらいでないといけない、ということと、馬鹿な質問を歓迎する雰囲気を作らないといけないということ。

 少し補足すると、問題を提起するためには、まず、「xxxが分からない。」と、言うことばを口にする覚悟と勇気がないといけない。秀才にはこれができない人がいる。何でも分かってしまう人、了解してしまう人がいる。そういう人はきっと独創的な研究者にはなれない。分からない、了解できない、という不安定で不愉快な気分に耐えて、その解消の努力ができる人、具体的な努力の仕方、作業の仕方を知っている人、がgood researcherである。

 日本人からオリジナルな仕事が出にくいのは、みんな一生懸命勉強してそれからはずれることを恐れる秀才病が蔓延しているからではないか?たとえば、アメリカでは、一見馬鹿なアイデアから出発して、議論し、アイデアを洗練し、最後には元のアイデア換骨奪胎して、りっぱな理論に仕上げる、ということがよくあるように思う。背景には仲間への信頼があり、お互い信頼に足る個人に成長し合う、という暗黙の了解があるのではないだろうか。好きな言葉に「情けは人のためならず。」というものがあるが。

普通の秀才集団としての研究室やプロジェクトチームでは、その秀才風を乗り越えない限り、せいぜい二流の一流にしかなれない。欧米のだれかが提起した問題をできるだけ早く、きれいに解く。研究の流れを作るためには、解くことではなく新しい問題を見つけないといけない。日本の教育で育った秀才は、誰も言いそうにない問題を見つけるのは心理的に難しいと思う。むしろ、自分は鈍才である、と自認している人の方がオリジナルな発想ができるのではないだろうか?

   「秀才なおもて論文をものす、況や鈍才をや!」

               

                 (2009/03/16に書いた記事を一部整形)

 

 

大江健三郎「万延元年のフットボール」についての思い出

500ページ足らずの(大江の作品ではない)小説を3年がかりで読んだ。達成感はあるが、何がいいたいのか分からない。人生の終わりを切実に感じている老人の生き方を描いていることは分かった。その点で年齢を自覚するものとして考えこむときが何回かあった。しかし、全体としては、構成があまりにも難解。時間が経てば意味が分かるようになるのかもしれない。(これを書いて5年後の注記:今ではこの小説の題名も作者の名前も全然思い出せない。)

ところで、何年もかかって読んだ小説はいままでに何作かある。最初は、「ジャン・クリストフ」。途中、合計1年ぐらいの中断を経て3,4年かけて読んだ。ずっと、感動していた。次は、大江健三郎の「万延元年のフットボール」。学部時代に読み出して、読み終えたのは40歳台。大江がノーベル文学賞を取ったときをきっかけとしてだった。実存主義四国の森の土着の世界観、そして天皇制民主主義の主題が渾然一体となっていて、しかもその文章の圧倒的な詩的喚起力に翻弄されて、20歳、30歳台の私には読み進むことができなかった。各章の表題が谷川俊太郎の詩の一節から取られていた。今も思い出す引用されていた一節は「本当のことを言おうか!」。この表題だけで怖くてそれ以上読み進められなくなった。今ではちょっと信じられないが。大江の才能は散文による詩的イメージの構成の卓抜さにあると思う。

天野清「量子力学史」、カント

天野清著「量子力学史」(自然選書 中央公論社 1973年刊)を読み終えた。ただし、付録を除く。筑波出張とその後の置き忘れというトラブルのために、その読みが中断していたのであった。今日読んだところは量子力学の核心に当たるところであった。§16 量子力学における物理的量の状態の概念、§17 観測と統計、§18 相反補足性(Komplementaritaet)、§19 相反補足性の概念、§20 相互排他補足性 --- (統計力学熱力学の関係)

ガリレイによって物理学の方法が確立して以来、実験は人間が観測したい量を計るための自然への積極的な働きかけである。そこでは、計りたい量に対応した装置が用いられる:カントは「純粋理性批判」第二版序文で、ガリレイトリチェリの実験の計画性を指摘して、自然から単に教えられる生徒でなしに、答弁を証人に強ゆる裁判官として向かうことを、言いかえれば理性が自ら自然のうちへ挿入した原理に則って自然において求めなければならぬことを、物理学における思考法の革命と呼んだ。

それは量子力学においても同じである。複雑なのは、人間が認識するには巨視的な装置を介在させ、最後には古典的記述にまで「射影」しないといけないことだ。観測過程における「電子」と観測装置との相互作用はもちろん量子力学で記述される。スクリーンでの位置の測定は、ある位置に置かれたスクリーン全体と「電子」の相互作用に他ならない。問題はそのスクリーンを構成している物質と「電子」の相互作用の記述がすこぶる複雑で あることだ。相互作用ハミルトニアンは書けても、「電子」とスクリーン分子が反応した後の黒点の巨視的な析出を量子力学的に記述することがすこぶる難しい。物理学が進めばできるかもしれない。

しかし、1点の位置観測で波束の収縮、などと大げさにいうのは納得できない。波動関数は「予測目録」である。何回も同じ実験をして何がどのような確率で起こるかを教えるものである。1回のイベントについては何もいう能力を持たない。それは量子力学埒外である。

最後の章は量子統計の基礎についてであった。フォン・ノイマン、パウリ-フィールツ、エルザッサーが基礎的な貢献をしているらしい。ノイマン1929年「量子測定が一般には不可逆で、系のエントロピーを増大させる。」ことを証明した。一方で、彼は量子力学因果律を破っている、という間違った解釈を強調する。その数学は正しいのだろうが。

この本で紹介されているカントは鋭い。(何を今更!) 自然の客観的存在の前提として因果律がある、と言っている。量子力学ができはじめたころ、ウイーンを中心に経験批判論が流行り、観念論的な傾向が強かった。自然認識の主観的側面、自然の客観的存在を否定する傾向である。若くて当時の流行思想に敏感だったハイゼンベルグも不必要に自然認識における客観性を否定するかのような言辞を弄していた。フォン・ノイマンもそうだったのであろう。因果律の否定は自然の客観的存在を否定するための橋頭堡であったと考えられる。(2008/12/21記)

ルネ・レイボヴィツ

NHKFMでルネ・レイボヴィツ指揮のベートーベンの9番を聴いた。1昨年末のことだった。それがレイボヴィッツを初めて知ったときだった。

ローマフィルハーモニー管弦楽団

交響曲 第9番 ニ短調 作品125“合唱つき”」

(ソプラノ)インゲ・ボルク、(アルト)ルート・ジーヴェルト、(テノール)リチャード・ルイス、(バス)ルートヴィヒウェーバー、(合唱)ビーチャム・コラール・ソサエティー、(管弦楽)ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団、(指揮)ルネ・レイボヴィツ

凄い!初めて聴く力強い第一楽章。この解釈、演奏、大好きだ。彼のベートーベン全集は有名なのだそう。(Wikipedia)買おうか?

今全曲聴き終った。感動で何度も涙がこみ上げてきた。4楽章のバリトンソロは、神の人間世界への現出であり介入であると思った。最後は神の祝福を受けて共同体の祝祭があり、そして神と人間共同体がともに歌い祝福しあう中で曲は終わる。祝祭と祝福におけるピッコロのトリルや速いパッセージがそれを彩り盛り上げる。

今まで聴いていた第9は何だったんだろう、と思われる斬新な、しかし正当な解釈を聴いたと思った。

実際、レイボヴィッツが初めてベートーベンスコア通りのテンポで演奏したそうだ

E・H・カー「新版 カール・マルクス」(未来社、1998)

あるブログtwitterを読んでいたら、50年ほど前に訳が出たE・H・カーの「カール・マルクス」が、「マルクス主義」がマルクスの若いときに構成された未熟な思考体系である、と明快に批判している、というようなことを書いてあった。このような観点からのマルクス批判は新鮮だし、納得がいくような気がしたので、急に興味がわいて図書館から借りてきた。そのうち2章にわけて、マルクス主義の内容と批判が書かれていた。実はそこだけ読んでみた。以下、記憶による覚書:

 哲学唯物論弁証法)、政治学経済学からなるマルクス主義理念マルクスが20歳代中ごろまでに構成された。それぞれドイツフランス、そしてイギリスで構成された。特に、経済学イギリスに行ってから死ぬまでその完成に苦心惨憺し、未完かつ失敗に終わった。

哲学ヘーゲル観念論においては、正・反・合は思惟の一つの過程である。マルクスは、フォイエルバッハ唯物論(それはただ絶対存在を「物」と言い換えたものに過ぎない。「物」のそれ以上の具体的に掘り下げた分析や概念規定はない)を経て、すべての自然過程を正・反・合によると想定した。それは通常の哲学(学問)では、そこから学問的分析が始まる「予想(conjecture)」に過ぎないはずのものであるのだが。

 経済学:1) 労働価値説は当時の経済学では陳腐で常識的なアイデアであった。しかし、「資本論」の中でマルクスにより誠実に説明されたその学説は自己矛盾や循環論法に陥ったものになっており、無残にも自己破綻している。それは壮大な「マルクス経済学」のすべての基礎であるにもかかわらず。しかし、そういうことはあり得ることである。キリスト教の基礎は、不合理に満ちているが、それでもそれを認めてしまえる人にとっては意味のある思想体系が成立しているのである。

しかし!2) 資本家を打倒し、、資本主義を転覆させる「憎悪の革命」を成立させるはずの「剰余利潤学説」も破綻している。これが成立するための条件が限定的過ぎる。しかし、その前提はその後の歴史経過の示す事実と矛盾している。そもそも、利益が労働者資本家に分配される、ということはアダムスミスに書いてある。後者を意味ありげなレトリックで「剰余利潤」と言い換えたに過ぎない。そこから、不当性が示唆され、憎悪の革命が正当化される。実は、論理は逆である。「憎悪の革命」を正当化するための論理として「剰余利潤」の学説が提起されたのである。そして、その論理は、しっかりと読み込む読者には破綻していることが明らかである。しかし、「資本論」を最後まで読み通す注意深い読者はこれまでほとんどいなかったのだ。「資本論」で証明されている(らしい)、ということだけが宣伝され、ほとんどの人がそれを信じて「革命運動」の実践に勤しんだ、ということなのだ。

感想:

日本でなぜ「マル経」があれほど猛威を振るったのか?まったく不思議に思うようになった。