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山下誠子句集「富士に添ふ」感想

俳人協会会員、「橡」同人の山下誠子さんから初句集「富士に添ふ」を献本していただいる。山下さんとはある偶然のきっかけで親しくお話ししていただくようになっていた。献本という思いがけない感激に、その日のうちに通読し、心に残った句を日記に書き留めた。句集というものを通読したのは初めてのことであった。全体として山下誠子という一人の人間とその人生が立ち上がってくるという予想外のことに戸惑いを覚えるほどであった。そしてそこに俳句を超えた芸術としての文学が成立しているのではないかと思った。句集というものが全体として文学作品になり得るのだということを悟った。桑原武夫の用語を使えば、「第二芸術」ではなくりっぱな「第一芸術」である。

 以下印象に残った句とそれに対して私が行った感情移入を紹介する。素人の独りよがりな読み込みであることをあらかじめお断りしておく。(以下で、太字は山下誠子作の俳句、その下の文は私の感想である。)

・風花や虚空をつかむロダンの手

 晴れたそらからちらちらと落ちてくる捉えどころのない雪片。それを力強くつかもうとするロダン作の彫刻の手は、力強い意志と決意を表しているかのよう。それを見る作者も何かしら意に決してことがあるのかもしれない。

 

・伊予うらら密柑のいろの市電きて

 伊予は私の生まれ故郷である。伊予は気候が温暖で住んでいる人間ものんびりしている。それは「うらら」のことばのニュアンスによくマッチしているようだ。みかんが大好きで郷土愛の強い伊予の人間は電車もみかん色に塗っている。そこには「坊ちゃん」の絵も描かれていたかもしれない。そんな様子をみて取った作者が微笑ましく電車を見ている。

 

・あを空に雪舞ふふしぎ訃報受く

 青空に舞う雪のふしぎと訃報という非日常が応じている。ちらちらと落ちてきた雪片が亡くなった方の切れ切れのメッセージだったのかもしれない。

 

・なるようになりゆく術後冬隣

 病気を得て、手術をして、いろいろと考えると不安だけど、なるようにしかならないと思い直し、平常心を保つ。だけど、心の底では厳しい冬に備える警戒心もぬぐえない。同じく病気もちで毎年検査入院をしている私にはとても共感できる句である。

 

・この秋は薔薇の香深し床上げす

病気で寝たままだった。やっと床上げするところまで回復した。人生のこと生きる意味、いろいろ考えた。生きていることのありがたさを深く感じる。すると、まわりのものがすべて美しくいとおしく見える、感じる。ましてや、華麗な薔薇。その香にもこれまで以上に深く豊かに感じられる。  

 

・風花や背を正さねば影も病み

 晴れた空から舞い降りる雪。少し肌寒い。晴れているので我が身の影ができている。縮こまっていかにも病人のそれだ。これではいけない。これは私ではない、背を正し、心を強くしよう。

 

・富士見むと母に逢はむと露の旅

 故郷の富士、それは心のふるさととしての母と一体のものだ。その母に異変があるようだ。心配だ。富士の見える場所へ、そして母のもとへと露に濡れながらも急ぐ旅路。

 

・病みて冴ゆ 短詩のごとき母の言

・富士に添ふ 冬星しづか母ならむ

お亡くなりになったお母さんの思いでそして鎮魂句。故郷の富士に添う星となって今もいる母、私を見守ってくれているはずの母、そして私も夜空を見上げればいつでも母に逢える。句集全体のタイトルもここから取られている。

 

・歩まねば消ゆる峰道ほととぎす

 草に覆われた山道。歩いた後に草に覆われていた道が見える。ここは人の通ることの稀な山道だ。そこにほととぎすの鳴き声。自然の真っただ中を修験者のように山道を登る私。

私の深読み:    ほととぎすは別名子規、口が赤いので血を吐きながら鳴くという連想で、結核で血を吐く正岡子規が自分の俳号にした。ほととぎすのように血を吐くことはないが、病気もちの私。しかし、精進したい道がある。究めるまであきらめきれない道がある。その道は日々の歩みをやめればその分後退してしまう厳しい峰道だ。そのことを心に聞かせて、生きる糧の道を日々歩んでいこう。