「秀才」の陥穽

院生の頃言われたのは、馬鹿な質問ができないといけない、ということ。これは二重の意味があって、主体的に、馬鹿な質問かなと思っても勇気を出して質問できるぐらいでないといけない、ということと、馬鹿な質問を歓迎する雰囲気を作らないといけないということ。

 少し補足すると、問題を提起するためには、まず、「xxxが分からない。」と、言うことばを口にする覚悟と勇気がないといけない。秀才にはこれができない人がいる。何でも分かってしまう人、了解してしまう人がいる。そういう人はきっと独創的な研究者にはなれない。分からない、了解できない、という不安定で不愉快な気分に耐えて、その解消の努力ができる人、具体的な努力の仕方、作業の仕方を知っている人、がgood researcherである。

 日本人からオリジナルな仕事が出にくいのは、みんな一生懸命勉強してそれからはずれることを恐れる秀才病が蔓延しているからではないか?たとえば、アメリカでは、一見馬鹿なアイデアから出発して、議論し、アイデアを洗練し、最後には元のアイデア換骨奪胎して、りっぱな理論に仕上げる、ということがよくあるように思う。背景には仲間への信頼があり、お互い信頼に足る個人に成長し合う、という暗黙の了解があるのではないだろうか。好きな言葉に「情けは人のためならず。」というものがあるが。

普通の秀才集団としての研究室やプロジェクトチームでは、その秀才風を乗り越えない限り、せいぜい二流の一流にしかなれない。欧米のだれかが提起した問題をできるだけ早く、きれいに解く。研究の流れを作るためには、解くことではなく新しい問題を見つけないといけない。日本の教育で育った秀才は、誰も言いそうにない問題を見つけるのは心理的に難しいと思う。むしろ、自分は鈍才である、と自認している人の方がオリジナルな発想ができるのではないだろうか?

   「秀才なおもて論文をものす、況や鈍才をや!」

               

                 (2009/03/16に書いた記事を一部整形)