「橡」同人、俳人協会会員の三谷みゆきさんの初句集「初手斧」(令和元年文月、Baun 発行)を通読したいへん感銘を受けた。まず印象に残るのは、句集全体を貫く上品さと格調の高さである。そして断続的に句集全体で取り上げられ印象に残るのが、母上への敬慕の念とご主人が闘病中の不安とその死後の哀惜の念である。私は句集というものを通読する経験はまだ数回しかないのだが、そんな素人の私が分かった気持ちになり共感できたのは不思議なほどであった。以下、感銘を受けた多くの句のうちいくつかを取り上げそれへの私の勝手な鑑賞を書き記したい。
仙人草ましろき蝶を匿へり
仙人草の可愛い花びらの白さと蝶の羽の白さが鮮やか且つ印象的に表現されている。
いつになく子の百かぞふ柚子湯かな
ゆずの香りが幼い子にも珍しく気持ちよかったのだろう、微笑ましい情景を詠んだ句。
凩や砂紋の下の民の墓
砂漠の中に巨大に聳えるピラミッド。古代エジプトの王の墓である。一方、きれいな砂紋の下に庶民の墓が埋もれていた。壮大なピラミッドよりもそこに埋葬された名もなき民のことに思いが巡る。
老禰宜のよろけ打つなり初手斧
重要な神事、見物人もたくさんいる、その中でしっかりと打ち下ろさないといけない初手斧。有難い老禰宜の仕儀は思いがけずもよろけて危なっかしい。作者はその光景を滑稽と最初は見ただろうか?老禰宜のこの神事に掛ける心意気を尊いと感じ入っただろうか?そして誰もが老いて衰えていく人生に思いを致しただろうか?
鷹ふたつ放てり晴るる八甲田
壮大で広々とした空間が見える。「放てり」がよい。放たれた鷹二羽はその後自由に空高く舞い上がっていく、するとそこには青空に映える八甲田の山が聳えたっている。時間も表現されている。
秋深し氷河にあふぐ大熊座
これも格の大きな句。長く大きい氷河を下端からなぞっていくとその頂上の先、山に挟まれた夕空に見えたのは鮮やかな大熊座!
さくら満つかの日も母も還らざる
亡き母と過ごした日々はさくらの花のように華やかで楽しいものとして思い出される。それだけに喪失感は大きい。
年の豆かぞへ切れぬと鷲づかみ
鷲づかみするのは作者だろうか?やんちゃな一面が表現されていて微笑ましい。
柿一枝さげてもどれり試歩の夫
病み上がりの夫。今日はリハビリを兼ねて一人で散歩だ。大丈夫だろうか、心配していたが、帰宅した夫は柿を一枝持っている。その心の余裕に安堵する。
首振ればそろふたて髪風光る
たて髪のきれいな若い競走馬。春の光の中でまぶしいほどの美しさ。
運び女浴衣緋だすき貴船茶屋
ことばのリズム、テンポがいい。運び女のてきぱきとした働きぶりがこのテンポとリズムに表現されている。そして緋だすきが印象的に浮かび上がる。
病む夫の着るSサイズ秋ざくら
病気の夫が心配である。病気で痩せて着る服もSサイズの小さいのでよくなってしまった。不安がよぎる。コスモスの花の色も心なしか淡く心もとない。「S」の字が衝撃的。
波荒らぶ小島に野火や俊寛忌
島流しに合い、その上一人島に残されてしまった俊寛。望郷と絶望で心は荒れ狂っていたろう。そこに見える野火は絶望と怨念の俊寛の魂だろうか。そう今日はその俊寛の命日だ。
鰯雲消えゆく沖や忌を修す
消えゆく鰯雲に表現された寂しさと「修す」ということばに表された強い気持ちと。
萩刈るやひとりの刻を済し崩し
萩を刈る作業をする。一人でいることの侘しさ、寂しさが紛れるかと思いきや、どうしても思い出してしまいそうになる。それでもなんとか、寂しさの底に落ち込むことだけは誤魔化して免れることができたのだ。
秋深しひと日己れに倦むことも
一人でいることの寂しさ、このような一人でいることはいつまで続くのだろう。もういいのに、と思いながら、少し自分を客観的に見る余裕ができてきた。
母は宙好きでありしよ寒昴
夫を亡くし一人きりになって心のよりどころを求めるとき思い出すのは星を見ることが好きだった敬愛する亡母のこと。この感慨は「あとがき」に繋がっていく。短歌が母上のそのようなものであったように、「道に迷ったり物事に躓いたりした時は、いつも」向き合い、「ぶつかって行けば必ず受けとめてくれる」ものとなるよう精進しようと宣言する。「初手斧」という初句集によって切り開かれた新しい世界に作者は心許ないことは承知しながらなお、一人で生きていける自信を持ち始めているのではないだろうか。
この句集を読んで私は、平時代中期に書かれた菅原隆標女の「更級日記」を思い出した。これは夫の死を悲しんで書かれたと言われている。そして、実の母親ではないが、隆標娘の義理の伯母藤原道綱母は「蜻蛉日記」の作者である。
(「みつわ会」会報掲載予定文を改訂増補)