物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

2003年「大学改革」されてしまう前の私の意見

以下の文章は、2003年、国立大学が「法人化」される前に書いた私の見解である。「大学改革」の具体的内容ではなく、その主体となるべき学問研究のプロ集団たるべき大学人の力量と見識についての感慨になっている。ここで披瀝したobservationの内容と悲観的な展望は現在、残念ながら、強化されることはあれ改善するようには見えていない。むしろ、そうならないように大学人や研究者の分断が巧妙にかつ決定的に行われていったのが「独法化」以降のこの15年間であったともいえる。

%%%%%%2003年の私の意見%%%%%%%

最近、大学改革あるいは研究所の改革の問題が重大な局面に達してきている。 しかも、事態が不必要に混乱し、社会のなかでの学問研究の役割を 本来的に発展させるのとは逆方向に進んでいるように見える。 もちろん、根本的な原因は、 大学や学問の「公共財」としての性格や、 創造的な学問/研究が如何に生まれ発展していくかを理解していない人たち の策動による。 しかし、このような事態に到った原因には、 私は、大学人や関連する研究者集団が問題に対して情緒的に対応するのみで、 具体的な問題分析にもとづいた適切かつ毅然とした態度表明を してこなかったこともあると思う。 (独法化にまだそれほど危機感を持っていない人は、文科省の提出した 法案を読んでみて欲しい。) それは端的に我々研究者コミュニティの ある種の主体的「能力」の低下によるといえる: こういった研究をめぐる「社会的問題」に対して、 「感受性」をもたず、当然の「発熱」を含む免疫反応を示すことができなかった。 それは、日常的な教室や研究所の運営の中に現れる「細かな問題」にも 反映しているはずである。 また、指導的立場にいる人たち(学長その他、「長」の肩書きを持つひとたち)が、 問題の所在を明確に 「定式化し」、コミュニティの中での議論を組織する、あるいは、 注意を喚起する、というようなことを あまりしてこなかったようにも思う。さらに、ここ10年ほど、 若い人たちの 「感受性」を育てる努力もしてこなかった。
そもそも、大学や研究所の存在は社会の中で自律的にこれらの組織を運営して いく研究者の主体的力量が前提とされている。

私が院生のとき、教室運営、学会運営、素粒子論グループ、核理懇の問題、 学術会議、そのなかの原子核研究連絡会議(核研連)、物研連等について 研究室での議論に院生、ポスドクも参加していた。 また、夏の学校を含む若手活動(若手だけの研究会の組織、 若手をめぐる問題についての議論の準備その組織、段取り)への積極的な参加 を強く促された。
それまで、学生であり、スタッフに対しては「先生」 という意識しかなかったし、生来modestな私はこのような扱いのされ方に、 最初は居心地の悪さを感じた。 しかし、そこで強調されたのは、「よい研究」をしていくには、 研究をすることと同様に、上記のような研究をめぐる諸条件に係わる 「社会的」諸問題、その解決のために依拠すべき諸組織についてもちゃんとした見識を 持ち、発言、行動していくことが「研究者のプロ」として成長するためには不可欠であるということであった。これは、その後ふりかえると、たいへんよい教育であったと 思う。この強烈な「エリート教育」が「物理の京大」を支えてきた秘密かも しれない。
しかし、最近の院生や若い研究者を見ているとこのような教育が以前ほど徹底して いないようなので気になる。
政府やマスコミの流す通俗的な意見を研究者が無批判に受け入れていないだろうか? 声が大きかったり、権力者が発言するとそれが正しいことであると 思い込みがちになるのは弱い人間、誰しも仕方のないことかも しれない。しかし、 大学の研究者の使命は、まず、すべてにわたって批判的であれということであると 思うのだが。因に、カントの哲学三部作はすべて「批判」である。 そして、我々はもっと大学人として我々が依拠してきた文化、価値観 に自信をもたなければならないと思う。「大学改革」を議論するにしても それが前提である。
たぶん、上記の「社会的な問題」について議論をするような機会がさいきん希薄に なって、このような問題について「鍛えられ」ていないため、マスコミの流す、 無責任な当事者意識のない通俗的な意見に振り回されることにお互い なってしまっているのではないか?(私は院生時代に、 このマスコミの無責任さのため ひどい「やけど」をした経験がある。)
(教科書には書かれていないが貴重な)私の院生時代に受けたもう一つの 教えは、研究は、「わいわいがやがやしながらやるものだ。」ということで ある。そして、この「わいわいがやがや」は研究だけでなく、それを取り巻く環境 についてもあてはまっていたのである。お互い、「わいわいがやがや」やりたい ものである。