物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

誓子の句「学問のさびしさに堪へ炭をつぐ」に想う---湯川、孤独そして論語*1)

  以下の文章は、俳句の専門家からは素人のお門違いの妄言との誹りを受けるかもしれない部分があるかもしれないが、誓子の句を枕にした私の学問観として読んでいただければ幸いである。

「学問」における孤独 

高橋透水さんという方のブログ 

https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/04eda42b0435c978114cdfa12fa8ab59

によれば、誓子は「山口誓子・自選自解句集」で以下のように解説している:「法律の勉強には、条文の丸暗記や倫理的な解釈が必要で、気味ない、わびしい勉強だった」「『学問のきびしさ』と違うのかと聞いたひとがあった。学問のきびしいことはいうまでもない。私はその上にわびしさを詠ったのだ」。  また他のところでは、「独り堪え忍ぶことは、私の少年時代からの特技である」と言っている。

 確かに、ここで言っているのは「学問のきびしさ」ではなく学問のさびしさ」である。そして掲句は(集中して)学問する者が孤独でありその孤独を堪え忍んでいる様子を表現してもいるらしい。ところで、ここでの「学問のきびしさ」とはどういうことだろうか?それは新しい学問を勉強したことのある人なら多かれ少なかれ、あるいは深みは違っても、みんな体験し知っていることであろう。日本語、あるいは英語としての文章の意味が読み取れたとしても意味がさっぱり分からない、ということがよくある。文章として読めるがその内容、意味が分からない、またたとえ、ある部分が分かってもその目的は何か、どういう意味があるのか分からない、等々ということであろう。それはつらい、苦痛。この学問に向いていなのかなあ?という強烈な疑問に捕らわれる。。。

 誓子の句は、そんな状況、しかも寒い、つらさ、わびしさがよりいっそう募る、そのようなときの心境を「炭をつぐ」という措辞でうまく表現しているのではないだろうか? 

 実は、この孤独を感じそれに堪えるということは独創的な学問研究をする段階でもとても大切なのである。湯川秀樹は「学問研究における孤独とその孤独に堪えた経験のない人とは研究の独創性ということについて議論することはできない。」というようなことを言っている。「独創的な研究はいつも少数者から始まる。」、ということも何度も言っている。この孤独に堪える「厳しさ」はよい研究をするためには必須のものである。

 しかし、この独創性に伴う「孤独と寂しさ」と誓子の言う「さびしさ」は全く別物だということを、念のため、確認しておこう。実際、研究の場合その孤独の中で自分の信念だけを信じて行った研究がしばらくして漸く世界の理解することとなり評価されむしろ流行の研究になる、ということを目にし経験するという好運に巡り合う場合がある。その研究者はこれに勝るもののないほどの喜びや仕合せを感じるだろう。そのような展開は誓子の「さびしさ」にはなく、むしろ世捨て人のような孤独自体を楽しむ心性がそこにはあるように思う。孤独を堪えるのが特技の誓子であれば。

 

 [研究の楽しさと喜び]

学問研究の現場では「厳しさ」とともにそれにもまして「楽しさ」があり「喜び」があることを強調したい。以下では、対象が客観物である自然科学、特に物理学を念頭において「学問研究」の「厳しさ」、「楽しさ」について敷衍してみよう。以下では、「学問研究」を「研究」と書く。

 大学院入試をパスし、大学院で訓練を受け学位を授与されたような人なら、研究は楽しいものであると思う。学位を受ける前でも、研究がおもしろく楽しくて仕方がなくなるようになることの方が普通である。指導教員から提示されるなり自分で発見するなりして、まず問題を見つける。そして、その問題を考えることに意義を見出しおもしろいと思わなければ研究はしないでよい環境にいる研究者は仕合せである。

 先行研究をサーベイし問題の所在を確定する。時には、その問題の先行論文が探す限り皆無ということがある。それはその問題を世界で初めて問題にするということである。いずれにしろ、このようにして研究が始まる。もちろん、地道なサーベイ、必要な分野の習得/勉強そしてルーティン的な作業など楽しくないと感じることもあるが、自分で予想を立ててそれがうまくいったり、また、いろいろと試行錯誤していくうちにあることに気付く、発見する、ということが起こる。指導教員や同僚研究者に尋ねても誰も初めて聞く話だという。「世界でこれに気付いたのは自分だけだ!」このような経験を一度でもすると、研究はやめられなくなる。、その先に「世界初の発見」が待っているという期待で頑張れるのである。ここに忍耐力がいるが、それは研究能力の一部であり、研究経験が培うものである。

[研究段階の厳しさ:研究評価]

 一方で、研究の客観的厳しさというものがある。それは研究評価である。上に書いた同僚研究者の無理解を堪えるという本当に独創的で先進的な研究をするときに味わう厳しさもあるが、自然科学の場合通常の厳しさは自然との格闘にある。問題の本質に迫った研究であるかどうかを基準として自分の研究評価をする場合である。

  しかしその場合も、研究のプロは達観していると思う。そのポイントは二つある。一つは自然理解が段階を経るということの認識、もう一つは各段階あるいは各研究課題に応じた必要な研究時間の見積もりである。 第一の問題で私が作業仮説として採用しているのが武谷三男の「三段階論」である。自然認識は「現象論」、「実体論」、そして「本質論」と発展していく、という説。たとえば、プトレマイオスの天動説やコペルニクスの地動説は「現象論」、ケプラー理論は「実体論」、ニュートン力学万有引力の法則は「本質論」*2)。

  つまり、自分の研究の発展段階を認識し意味を理解しその後の発展が展望できることが重要であり、そのときには「厳しさ」は感じられないだろう。

 もう一つ、研究は手持ちの技術、一般的学問研究の発展段階によって、研究課題を遂行するのに固有の時間スケールが存在するということ。研究の「プロ」はその想定される「時間」を見積もれなくてはいけない。その見積もりができれば、「五里霧中」の中で感じるような「厳しさ」は感じないか耐えうるまでに軽減されるだろう。

[論語」は学問研究する者への有効な指針を与えている。]

以上の内容の要約として論語からいくつかの成句を掲げよう。

有朋自遠方來不亦樂乎 

(同じ問題意識を持つもの同士が合って議論することの楽しさ)

人不知而不慍不亦君子乎

(自分の信念を信じ回りの無理解に堪える。)

子曰、知之者不如好之者、好之者不如樂之者

(知識を自己目的化している人は学問が好きな人にはかなわない。そのような学問が好きな人も学問を楽しんでいる人にはかなわない。)

                              [以上]

[補足]

*1)誓子の掲句を種に以前に文を書いたが、それは少し句の意味を取り違えていたり、「勉強」を主とする誓子の掲句に段階の「学問」と「研究」を主とする段階の「学問」を峻別しすぎていて少しバランスを欠いていたことに気が付いた。そこで再改訂を行ったのがこの文章である。

*2)しかし、万有引力の法則/重力理論は現象論である。これの本質論はアインシュタイン一般相対性理論等価原理に基づく重力理論であるが、実体論的段階の研究は何であろうか、私にはすぐには思いつかない。これが、作業仮説とした理由。

 もう一つの例。原子核内の陽子や中性子核子と総称)の間の力(核力)の研究は、朝永などのやった現象論的にいくつかのポテンシャルを試して低エネルギーの観測量を記述するのは現象論的段階。場の理論を援用してポテンシャルの背景に新粒子(後に中間子と命名)という実体を導入した湯川理論が実体論。そして、核力の本質論は量子色力学(QCD)に始まる。日本のグループを中心とするQCDの数値シミュレーションによる核力の半定量的記述の成功を持って本質論が確定、と理解してもよい。