物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

2021年新年所感

このブログはずっとお休みしていた。別に病気で臥せっていたわけではなく、定年後も続けている専門の共同研究3件、本執筆、俳句作り、そして孫の相手と、実は思いがけなくもかなり忙しい生活をしている。それでブログを書く精神的余裕がなかった。

 書きたいことがなかったわけではない。一番は#コロナウィルスへの非科学的で悪質なコマーシャリズムによるマスメディアや自分の政治的野心のために言葉遊びで市民を操ろうとする冷酷な政治家への怒り。むしろ書き出すときりがなさそうなので書かないできた面もある。一言だけ書くと、感染者数に何の意味があるのか?また、その感染者数はどうやって集計したのか?

 実験報告の科学論文の場合、まず、計測方法の提示、その信頼性、入り得る誤差の評価の提示から始まる。また、計測方法が違えば、カウント数をそのまま比べることは全く意味がない。社会的に意味があり、その数自体により客観性があるはずの年齢ごとの重症者数や死者の数はほとんど報道されない。しかし、それを措くとしても、「計測」の評価の批判のない意味の数をただただ流し続けているのだ。

 本屋に約束した締め切りを何度も更新していて、心が痛む。20年来書いてきた研究をまとめており、そのときのTex原稿も残っているので「楽勝」と思っていたのがまずかった。まず、読み返すと、自分で書いたのに分からない。まず、対応するノートを探す。探し出して読み返すと分かるように書いてある。しかし、どうも書いている間に基礎的なことが当たり前に感じられてきて、いろいろな計算や論理のステップを論文に書いていないのだ。そのためほとんど20年分の計算をやり直しているようなことになっている。これでは時間がかかる。その上、やったことのあるはずの計算を繰り返すことで痛感するのは、老化による集中力、体力の衰え。ますます、時間がかかっている。この正月休みに何とか切の良いところまで持っていきたい。

 俳句は少しづつ本を読んでいる。今読んでいるのは、大岡信「短歌・俳句の発見」。以前、高浜虚子の本の「解説」を読んで大きく共鳴するところがあった。それまで、同じく郷里の巨人である子規への虚子の対応や彼の作った俳句への違和感により、虚子をちゃんと評価できていなかったようだ。しかし、戦後50年も経過した後の大岡信の虚子の評論を読んで、大いに納得することができた。虚子は、自分でも言っているが、かなり頭の良い、優れた人だったのだと思う。(旧制)高校、大学時代は同郷、同室の碧梧桐と遊び惚けていたようだが。たとえば、「吾輩は猫である。」で始まる小説第一作のタイトルをどうするか迷っていた漱石に、「吾輩は猫である」を強く提案したのは「ホトトギス」編集長/社長の虚子だった。

 さて、本執筆に戻ろう。ちなみに、この所感を書こうと思い立ったのは尊敬する柳田充弘さんに触発されたからであった。