物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

内田光子の思い出

十数年前の年末、BSで2006年ベルリン・フィル、シルベスターコンサートを観た/聴いた。指揮はサイモン・ラトル交響曲はリヒャルトストラウス関係。これはほとんどスキップ。モーツアルト、ピアノ協奏曲20番ニ短調、K466はすべて聴いた。ピアニストは内田光子

1989年にヨーロッパにいたとき、ヨーロッパのテレビでよく流されるクラシック音楽の番組の一つで内田光子のリサイタルが取り上げられていたのを思い出す。クラシック音楽の本場のクラシックの番組で取り上げられる日本人。自分自身、科学の本場に武者修行に来ている立場だったので、本場で自分の力を認めさせ、リサイタルをでテレビ放映させるところまで地歩を築きつつある彼女の偉さと「苦労」をしみじみ感じながら聴いていた。

当時はまだデビューして間もないころで、この番組も興味深いピアニストの紹介ということであったと思う。翌日、ピアノのとてもうまいドイツ人(ピアニストになるか物理学者になるか悩んだと言っていた)の院生に彼女のことを尋ねたら、「うん、まあなかなかいいように思う。」という軽い評価の仕方であった。久々に見た内田光子クラシック音楽の最高峰のベルリン・フィルとの共演者として、ドイツ首相はじめドイツのエスタブリッシュメントが聴きに来るシルベスターコンサートに登場したのであった。

その演奏は、まず美しい音色。そしてその音色、表情の多彩さ。それを駆使した音楽の表情の明快な表現。おもしろいのは、何をどのような感情を表現したいのかがときどき大写しにされる彼女の顔の表情によく表れていることであった。それはラトルも同様であった。このモーツアルトのピアノ協奏曲を通して聴いたのはこれがはじめてであった。深刻な表情の後の突然の単純で天真爛漫な表情の出現、等々。これを耳だけで聴いていたのでは、たぶん、不可解、ということで全部聴き通せなかったと思う。しかし、ピアニストや指揮者の表情から感情の流れ、展開が読み取れて、ああそれでいいのか、と納得することができるように思えた。そして、フィナーレの明るい昂揚した幸福感を感動を持って受け入れられた。久しぶりに感情の深いところでクラシック音楽を聴くことのできた夜であった。

ラトルのよさも理解できるようになった夜でもあった。