物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

天野清「量子力学史」:量子力学における観測と因果律

天野清著「量子力学史」(自然選書 中央公論社 1973年刊)を再読したのは10年ほど前だった。(ただし、付録を除く。)やはり、量子力学の講義の準備のためだった。

以下のセクションが量子力学の核心に当たるところであろう。すなわち、

§16 量子力学における物理的量の状態の概念、

§17 観測と統計、

§18 相反補足性(Komplementaritaet)、

§19 相反補足性の概念、

§20 相互排他補足性 --- (統計力学と熱力学の関係)

ガリレイによって物理学の方法が確立して以来、実験は人間が観測したい量を計るための自然への積極的な働きかけである。そこでは、計りたい量に対応した装置が用いられる:カントは「純粋理性批判」第二版序文で、ガリレイトリチェリの実験の計画性を指摘して、自然から単に教えられる生徒でなしに、答弁を証人に強ゆる裁判官として向かうことを、言いかえれば理性が自ら自然のうちへ挿入した原理に則って自然において求めなければならぬことを、物理学における思考法の革命と呼んだ。

それは量子力学においても同じである。複雑なのは、人間が認識するには巨視的な装置を介在させ、最後には古典的記述にまで「射影」しないといけないことだ。観測過程における「電子」と観測装置との相互作用はもちろん量子力学で記述される。スクリーンでの位置の測定は、ある位置に置かれたスクリーン全体と「電子」の相互作用に他ならない。問題はそのスクリーンを構成している物質と「電子」の相互作用の記述がすこぶる複雑で あることだ。相互作用ハミルトニアンは書けても、「電子」とスクリーン分子が反応した後の黒点の巨視的な析出を量子力学的に記述することがすこぶる難しい。物理学が進めばできるかもしれない。

しかし、1点の位置観測で「波束の収縮」、などと大げさにいうのは納得できない。シュレーディンガーが適切に表現したように、そして江沢洋が強調するように、波動関数は「予測目録」である。何回も同じ実験をして何がどのような確率で起こるかを教えるものである。1回のイベントについては何もいう能力を持たない。それは量子力学埒外である。

最後の章は量子統計の基礎についてであった。フォン・ノイマンパウリ-フィールツエルザッサーが基礎的な貢献をしているらしい。フォン・ノイマンは1929年「量子測定が一般には不可逆で、系のエントロピーを増大させる。」ことを証明した。一方で彼は、量子力学因果律を破っている(?!)、という間違った解釈を強調する。

この点、天野が紹介するカントの鋭さは賞賛に値する(何を今更!):彼は、

 自然の客観的存在の前提として因果律がある

と言っている。

 量子力学ができはじめた20世紀初頭、ウイーンを中心に経験批判論が流行り、観念論的な思考傾向が支配的であったようだ。自然認識の主観的側面、自然の客観的存在を否定する傾向である。それは、若くて知的感受性が強く当時の流行思想に敏感だったであろうハイゼンベルクに典型的に見られるかもしれない。「不確定性関係」を「不確定性原理」と呼んで世界認識の曖昧さ、不確実さを過度に強調したように思われる。その「発見」に有頂天になっていたかのようでもあった。ハイゼンベルクと同年代のフォン・ノイマンもそうだったのであろう。因果律の否定は自然の客観的存在を否定するための橋頭堡であったと考えられる。