物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

岩波「世界」、「朝日ジャーナル」の想い出:桑原武夫、加藤周一、丸山眞男

学生時代から30歳になったころまで岩波書店発行の月刊誌「世界」を定期購読していた。そのころよく読んだ常連の寄稿者は桑原武夫丸山眞男(真男)、加藤周一そして伊東光晴らであった。
私は桑原武夫は偉い人だと思い私淑した。その後、岩波から出た10巻の全集も買ってだいたい読んだほどだ。晩年の著作である「文学序説」(岩波全書)が出たとき当然買って読んだ。全部ではないが。実は、その中のいくつかの論説は「世界」や他の雑誌で読んだことがあったものだった。たとえば、「悪の文学」だったかは確か「世界」に載ったときに読んだ。ちなみに、桑原の「文学入門」(岩波新書)も読んだ。出だしが印象的で、文学の意味を問うことはむなしいように思う、なぜなら、今私はトルストイの「アンナカレーニナ」を読んだところだからだ、文学の意義は問うまでもなく明らかだ、というようなことを書いてあったような気がする。
 
 これには後日談があり、高橋和巳のエッセーを読んでいたとき、学生時代桑原先生の講義を取った、そのレポート課題が「文学の意義を問う」というようなもので、悪戦苦闘し、たまたま出版された先生の「文学入門」を読んだら「その問いに意味はない」、というようなことをいきなり書いていてびっくりした、というようなことが書いてあった。こういうゴシップは楽しい。
 
私が学生のときは、「世界」は学生の必読雑誌のような感じだった。当時は他にも様々の雑誌が読みごたえがあり、「朝日ジャーナル」もよく読んでいた。(大学院に入ったら素粒子物理学専攻の同級生が「世界」のライバル誌の「文芸春秋」を購読しているのを知って驚いたことがある。彼はその後、防衛相の研究所に就職した。)
 まだ、そのころは日本も「ジャーナリズム」らしきものが健在だったのかもしれない。結局我が国では「らしきもの」から本物のジャーナリズムに成長することはなかった、と言わざるを得ないのは誠に残念なことだ。それが現在のわが国の体たらくの少なくとも一因だと確信している。
 因みにその背景には大学教育の問題があると思う。ジャーナリズムは、現在起こっている様々の現象から伝えるに値する「現象」をピックアップする見識とその背景を明らかにする調査能力とそれを支える基本的学識がなければならない。ジャーナリズムの仕事は感受性と知性の要求される非常に高度な仕事だ。たとえば、丸山眞男は彼が元々希望していたようにジャーナリズムの世界で仕事をすれば世界的に優れたジャーナリストになったかもしれない。大体、彼の著作の多くは上質のジャーナリスティックなものだ。
 
加藤周一の「日本文学史序説」のかなりの部分は「朝日ジャーナル」に掲載中に読み、感動して、本で出たときすぐに上下とも購入した。私の日本文学の「知識」のほとんどは「序説」が作っていると思う。
桑原武夫と言えば、「第二芸術」が有名だけど、「全集」を中心にそれ関連のことを調べたことがある。それについてはいずれここに書きたいと思う。