物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

母がなくなって10年:法事のお経の思い出

10年前の4月28日に母が亡くなった。2011年の6月初めに四十九日の法要があった。母のことを書き出せばきりがないし、ここではそういう母への個人的な想いを書く場所ではないだろう。以下では、そのとき法要の様子を観察して分かったことや考えたことを書いてみる。

 我が家の宗派では、法事では一人ひとりお経や和讃、歌の載った本が渡される。法要では導師に和してあるお経を朗誦することが勧められる。その「お経」を見てみると、親鸞の「正信偈」である。これはすべて漢文で書かれている。これが、中学生の娘を含め漢文が白文で読める者など誰もいないと予想される全員に渡されて、唱和が求められる。

 しかし私は、母の大事な法要でもあるし、是非何が書かれているのか少しでも知っておきたいと思い、導師の法要の間「正信偈」の白文をにらんで一生懸命その解読を試みた。驚いたことに、少し意味が取れるところがあった。ごく限られた範囲ではあるが、私の理解したところでは「お経」で唱えられているのは以下のような内容のようである:

仏陀の教えはこう(八正道が説かれていた)であり、龍樹(あるいは鳩摩羅什)にははこういう業績がある、源信はこう言う教えを説いた、時宗の教えはこうである、、、

結局、善悪凡夫は他力本願、阿弥陀にすがって念仏するしかない、

さあ、唱えよう、「南無阿弥陀仏」、

 この漢文の白文を音読みでずっと読んでいくのが子供のころからありがたく聴いているお経の内容だった。このような内容をどれほどの人が理解しているのだろうか?漢文など読めない大衆への布教としては「有難い」呪文の音として聴いていなさい、ということだったのかもしれない。
 
 昔勉強したときの私の理解によれば、この宗派の教えは以下のようである:
 救われるかどうかは人間の努力でどうにかなること(自力)ではなく、阿弥陀が決めることである(他力本願)、しかし、凡夫である我々は阿弥陀の本願にすがるしかないので、我が身を投げ出して念仏しなさい。したがって、救われるかどうかは不明である。さらに、そのような阿弥陀の慈悲があるかどうかも、実際は確信がない。しかし、そのような本願がある場合の仕合わせと無い場合の地獄を比較して、阿弥陀の慈悲の存在という教え(仮説)に賭けるのである。そのような教えを説いた法然を、謀れているかも知れないが、信じるのである。

(興味深いのは大乗仏教による救済の論理構造が遠藤周作の解説するキリスト教のそれに似ていること、そして、阿弥陀の救済を説く法然を信じる方が絶対的救済の期待値が大きい、という説得の仕方は、加藤周一が「日本文学史序説」で指摘するように、パスカルの「パンセ」の中にある「神の存在」についての確率を使った議論と酷似している。親鸞の方がパスカルより何百年も早いが。)
 しかし、今日の導師の教えは次のようだった。すべての人が亡くなった時点で成仏しているのですよ、亡くなったS子さん(亡母)もすでに御浄土に導かれ成仏しているんですよ。このような縁のある方々が集う機会を作ってくださった、S子さん(亡母)に感謝しましょう。。。
 最後の点はなるほどその通りと納得した。