物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

亀淵 迪著 「くりこみ理論誕生のころ――一研究者の回想」(2016年、「図書」連載)

5年前の2016年、たまたま教室の図書室で見つけて読んだが、岩波の「科学」に3月号から連載されている亀淵 迪さんの

「くりこみ理論誕生のころ――一研究者の回想」。

これがすこぶるおもしろかった。(これは、その後の連載も含めて次の単行本として出版されているようだ:

亀淵 迪著「素粒子論の始まり 湯川・朝永・坂田を中心に」(日本評論社、2018年)。さらに、今ではKndleもある。)

 湯川、朝永、坂田らの話題について書かれたものは大分読んでいて新しいことはあまりないかもしれない、と思いながら読んでみたのだが、初めて知ることや改めて確認することがたくさんあって、現在掲載済みの2016年5月号の分まで一気に読んでしまった。
 たとえば、超多時間理論形式の

朝永-シュウィンガー方程式

は、本質的に同じ方程式は1937-8年ごろハイゼンベルクが書き下しているので、

ハイゼンベルク-朝永-シュウィンガー方程式

と呼ぶべきだなどと書いてある。
 また、パウリ-フィラースの正則化の基礎となる基本関係式は彼らの論文と同じ年に梅沢博臣さんがProgress of Theoretical Physics(戦後、湯川秀樹が創出した英文国際雑誌。後継誌はProgress of Theoretical and Experimental Physics)に出している。ただし、それは混合場の文脈でだった。この仕事をパウリがたいへん評価して、そのことを朝永に手紙を書いている。それは「素粒子論研究」(戦後発行された日本の素粒子論グループの機関紙)に掲載されている。このことを坂田先生はたいへん喜ばれたとか。。。

 2中間子論の最初のアイデア坂田昌一ではなく谷川安孝による、ということもちゃんと書いてある。(現在の)μをフェルミオンとする場合を坂田-井上、ボソンとする場合を谷川さんらが分担して検討する、ということになった。前者うまくいったので(!)、坂田が坂田-井上だけの論文を書いて出版してしまった!亀渕さんはこれを「不条理」と表現している。この事件のことは、中村誠太郎さんの本にも書かれていたように記憶している。これは「湯川秀樹朝永振一郎」(読売新聞、1992年)だったと思う。
 もっとおもしろいのは、ハイゼンベルクが朝永-シュウィンガー方程式につながる理論を展開し論文を書いてい入たころ、そこ(ライプチッヒ)に朝永は留学し、ハイゼンベルクの指導を受けていた。そうあの「滞独日記」(「朝永振一郎著作集〈別巻2〉日記・書簡」所収、みすず書房の世界。

 なぜ、そこで朝永は反応しなかったのか?その理由は、それまで朝永は「現象論(phenomenology)」の人だった。理研の実験研究を主とする仁科研究室付理論家の役割を担っていて、実験に即した現象論屋(Phenomenologist)」として活動していた。また、そこにはボスである仁科からの「圧力・期待(pressure)」もあったであろう。

しかし、帰国後朝永は現象論屋から理論屋(Formalist)すなわち現在でいう物理アーカイブの分類でhep-th系の研究者になった、すなわち、我々の知る朝永に変身したのである。そのきっかけは何であったか。。。というようなことも書いてある。
 ゴシップに類する話で個人的に興味深く思ったのは、梅沢博臣さんが東京の武蔵高校出身で町田茂(京大名誉教授:故人)さんと同級だったということ。ただし、梅沢はおじさんの手配で理科乙(医学系)所属で、成績優秀だったが東大物理の入試に失敗。あわてて入れる大学を探したら名古屋大の工学部ぐらいしかなかった。それで名古屋へ。しかし、猛勉強して、Whittacker-Watosonの`A Course of Modern Analysis'やフォン-ノイマン`Mathematical Foundations of Quantum Mechanics'(「量子力学の数学的基礎」)などを学部時代に読破している。
 ちなみに、この武蔵高校からは著名な物理学者が多数輩出している。高橋秀俊、戸田盛和、植村泰忠、早川幸男、有馬朗人等々。