物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

益川敏英先生の思い出/益川語録 (2021年8月15日/8月17日追記)

2008年度ノーベル物理学賞賞受賞者の益川敏英先生が先月7月23日に亡くなられたとの報道があった。稀有な独創的研究者であった益川さんの個人的思い出を備忘録的に書き留めておく。

1) 私が学生だったとき、益川さんは素粒子論研究室の助手だった。この研究室には助手の先生が3人いて、後の二人は坂東昌子さん(後の愛知大学教授、日本物理学会会長)と小林誠さん(2008年度ノーベル物理学賞受賞)だった。助手は3回生の演習を受け持っていた。私の解析力学/量子力学力学の演習の担当が坂東さん、電磁気学演習担当が小林さんだった。

 演習のクラスはいくつかに分かれていて、他のクラスを益川さんが担当していた。そのクラスにいた友人と後で会話したところでは、この友人は普段は人を尊敬したり褒めたりすることの(めったに?)ない人間であったと思うが、益川さんにはいたく感銘を受けたようで、授業の後、「今何を研究しているんですか?」などと質問した。すると、益川さんは

    「物性物理、特に超伝導の理論を勉強している。」、

と答えたらしい。素粒子なのになぜ超伝導を研究しているのか、我々は不思議に思った。

実は、現代素粒子理論の基礎は超伝導理論をひな形とし規範としている、と言える。南部陽一郎先生の「自発的対称性の破れ」は超伝導のBCS理論の記述する超電導状態がゲージ対称性を破っていることの意義を深く理解することを動機としている。超伝導の有効理論であるギンズブルグ^ランダウ理論は標準模型ワインバーグ-サラム模型)の基礎となったヒッグズ理論の非相対論版だ。南部さんとマンデルシュタムによって独立に提唱された「クォーク閉じ込め機構」の有力な理論はギンズブルグ-ランダウ理論のある種の拡張だ。

2) 益川さんが基礎物理学研究所の教授で京都に戻ってきた後に開かれた研究会のある日、昼食後の休憩時間に名大の安野先生(名大教授:当時)と私の指導教官の玉垣さん(玉垣良三京大教授:当時)と益川さんの研究室に「遊びに」行ったことがある。その書棚を見た玉垣さんが、当時出たばかりの岩波講座「基礎数学」全24巻が揃っているのを見つけて、

  「えらいなあ、ちゃんとそろえて持っているんだ。」、

と言った。するとすかさず安野さんが、

  「いや、持っているだけでなくちゃんと読んでいるから凄いんだ。」、

と言われた。明らかに、京大、名大の著名な理論物理学の教授が益川さんの学識には一目も二目も置いていた。

 ちなみに、その後就職した名大出身の数学の同僚は益川さんの「趣味」が岩波の「数学辞典」を「読む」ことだと教えてくれた。

3) 同じく、益川さんが基礎物理学研究所の教授だったころ、当時「OD問題」と呼んでいた「後継者養成問題」に関して学術会議会員と京都近辺の研究者との懇談会があった(湯川記念館の2階北側に在ったコロキウム室)。当時院生だった私も陪席したその会議には益川さんも出て積極的に発言していた。その発言の中で、財政問題が議論になったときだと思うが、

  「お金は量子化されているから、、、」、

という耳を疑う言葉が聞こえた。しばらく後、私は勇気をふりしぼって、

  「先ほど益川さんがお金は量子化されている、と言われましたが、どういう意味でしょうか?」、

と尋ねた。すると、ちょっとしためんどくさそうな沈黙の後、

  「お金はすべて交換可能だから。」、

と言われた。確かに、量子力学的に記述される電子はどの電子も区別がなく交換可能だ。何という洞察力と頭の柔らかさか!、と衝撃を受けた。

 帰路、鴨川のほとりの木々の葉っぱの中の電子もこの自分が息している空気中の分子の中の電子もみんな同じで交換可能だ。どうしてだろう?そこで悟ったことは、電子はただ一つの電子場で記述される。電子場は宇宙で一つだけだ!だから、どこで見つかろうと電子はみんな同一。

4) 1983年から南部-ヨナラシニオ模型(NJL模型)をQCDの低エネルギーカイラル有効模型として位置づけなおしその有効性を例示するとともにその帰結を展開する仕事を始めた。1987年、QCDの非摂動的な特性の一つであるカイラルアノマリーの効果を記述する行列式クォーク間相互作用を含むようにNJL模型を拡張し、それを11月の基礎物理学研究所で開催された研究会で発表した。その内容をきっちり書いた研究会報告は翌年1988年7月発行の「素粒子論研究77 巻 4 号 p. D16-D32」に掲載された:https://www.jstage.jst.go.jp/article/soken/77/4/77_KJ00004790229/_pdf/-char/ja

その月に基礎物理学研究所で開催されたシンポジウム(於旧湯川記念館3階大会議室)に出席して後ろの方の席に座っていた時、休憩時間に、それまで個人的に親しく話をしたことがなかった(当然無名の)私に益川さんが会議室の階段を登ってどんどん近づいてきた。まさか、と思って緊張していると、あろうことか私の隣に座った。そして、 

%%%%

益川:「素研」に出ていたアノマリーを入れた南部模型を書いたのは君か?

 私:はい。

 益川:昔、小林君らとη'の分析をして、行列式型のクォーク間相互作用が存在しない                  といけないことを示した。

  私:あ、知っています。

 益川:引用しろ、と言うわけではないが、一応知っておいてもらいたい。

  私:いえ、是非引用させていただきます。

%%%%

実は、研究会報告を出したときはそのKobayashi-Maskawa(PTP44 (1970),1422)とそれに続くKobayashi-Kkondo-Maskawa(PTP49 (1973),634)を知らなかった。1987年12月に提出し5月に出版された論文(Phys. Lett. B206,385)にはインスタントンからその項を導出した't Hooft(1976)らの論文は引用しているが、Kobayashi-Maskawa/Kobayashi-Kondo-Maskawaは引用できていない。この7月のシンポの直前にたまたまその存在に気が付いた。痛恨の極みと言えるが、しかし、日本の国際雑誌Prog. Theor. Phys.に出版された彼らの論文はそのころはほとんど引用されていなかったのも事実である。その後、1994年に出版した総合報告(Phys. Rep.247 (1994),221)では、この行列式型相互作用をKobayashi-Maskawa-'t Hooft項(KMT項)と呼んだ。それ以降今ではかなりこの用語が定着してきていると思う。

 

 

 

5) 前世紀最後の年に基礎物理学研究所に移った。そのときの所長は益川さん。

 益川さんの研究室で辞令をいただいた。基礎物理学研究所で益川所長のもとでの所員のとき、所の運営に関していくつか印象深いエピソードがある。事の性質上具体的には書かないでおくが、そのいくつかは私が私立大学から国立に移ったことによる不適応と私自身の「軽薄さ」に関係していた、と書いておくことにする。

6) 所員になって数年後、益川さんの還暦祝賀パーティが京大会館であった(益川さんは1942年生まれ)。その場で聞いた趣旨説明によると、実はこの祝賀会は1年以上遅れていて開催されていて、益川さんはもう61(62?)歳になられている、とのことだった。お世話する人の落ち度か?と緊張したが、そうではなかった。挨拶に立たれた益川さん本人が事情説明をされた。それによると、こういう行事はいやで祝賀会をしたいとの申し出をずっと固辞していたらしい。ところが、ある尊敬する先輩からそういうのはありがたく受けるのが常識だ、と「たしなめられ」たので遅ればせながら祝賀会をしてもらうことにした、ということだった。

 そして、立食で行われた還暦祝賀会の会食の途中、益川夫妻が各テーブルを回りあいさつをされていった。私たちのテーブルに来られたとき、益川さんが私を奥さんに紹介してくださった。私の名前を言った後、少し私をじっと見た。そして決したように、「君はおっちょこちょいだね。」、と論評された。私はその自覚が大いにあったので、見抜かれているなあ、思いながら「そうです!」、と答えた。ところが、焦ったらしいのは奥さんの方で、夫を少し制しながら私を見て、「すみませんねえ。主人は変わっているでしょう?」、と言われた。すると反論するように、

益川:いや、理論物理をやっている者(研究者?)はおっちょこちょいじゃないと

   いかん。わしもそうだ。

私: ありがとうございます!

                                                                                                            

[追記:2021年8月15日]

7) 拙著「量子力学」(東京図書: 2018年)の監修者は益川先生である:

基幹講座 物理学 量子力学

監修とともに巻頭鼎談をしていただいている。この教科書は書き上げたとき530頁あり、それは編集者から一旦了解が得られていたのだが、出版社の要請で350頁ほどに1年ほどかけて縮めた。結果としてやはり難解になってしまったのは残念だ。ただ、ここに書いてある内容は量子力学の「プロ」を目指す人には最低限身につけてもらいたいことであり、その点は編集者の先生からも好評を得ている。いずれにしろ、益川先生の監修のもと著書をものすることができたことは光栄の至りである。

                              [合掌]

[η'について2021年8月17日補足]

 4)の箇所で出てきた「η'」とは質量が958Mev/c^2の擬スカラー中間子のこと。(カレント)クォーク質量を無視すると、フレーバーSU(3)の古典QCDラグランジアンはカイラルU(3)XU(3)対称性を持つ。実際の真空では、バリオン数U(1)と坂田-ゲルマンのフレーバーSU(3)の対称性が残るので、U(3)の対称性が自発的に敗れている。U(3)=U(1)XSU(3)の生成子の数は1+8=9個なので、擬スカラーの南部-ゴールドストーンボソンは9個ないといけない。実際は、カレントクォークは小さい質量を持つのでこれらの中間子は小さい質量を持つだろう:3個のπ(140),4個のK(495)、η(550), η'(958)!

このη'はNGボソンと考えるには重すぎるだろうというのが問題。U_A(1)問題と呼ばれた。この問題の解は古典理論で成立していた保存則が量子効果で保存されなくなる、という「量子異常(アノマリー)」(今の場合、「カイラルアノマリー」)の存在を考慮することにより解決する。詳しく知りたい方は、拙著「クォークハドロン物理学入門 --真空の南部理論を基礎として--」(サイエンス社: 2013年)をご覧ください: 

www.saiensu.co.jp