物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

世界第10位の研究力になってしまった我が国:国立大学「独法化」と財務省の「選択と集中」政策の「成果」

日本の研究が世界10位になったという報道があった。これに関連して、2018年12月に書いたものに手を加えたものを掲載する。
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 大学は、独法化とそれに期を一にして取られた「選択と集中」政策のために、組織も人も貧困化している。「貧すれば鈍する」、これが今回の数字に表れた帰結である。
 ます誤解を解かないといけないのは、研究費よりも前に大学の「維持費」である運営交付金というデフォルトの教育・研究・人件費が毎年削減されている、ということである。これには教育費と人件費が含まれているので、なんとか最低限の大学教育を誠実に維持するために教員スタッフの給料を実質下げ(20年ほど前に年齢ごとの給与曲線を下に平行移動した)だけでなく、常勤の特に若い人のつく助教、准教授のポストを毎年のように減らしている、という状況なのである。したがって、有為の将来を担う若手研究者が付く常勤の教員ポストの絶対数がどんどん少なくなっている。
 その代わり、いやその上、と言うべきか、その補充は、「選択と集中」政策による「競争資金」でのみ獲得可能な任期付の(特定とか特別とかタイトルのついた)助教、(特定)准教授ポストとして行わざるを得ないという状況である。この3年、5年任期の非常勤のポストを一つ、二つ創設するために学部、学科を上げて「新分野」を作り申請書を書いてその予算を獲得して、何とか教育、研究活動を維持している。しかしこれは、退職金もない3年か5年で切られる任期付ポストである。どこかの会社に勤めていて出向で研究員してます、という話ではない。30歳も半ば、中には40歳を超しても、首が切られる、その後なんの保障もない。
 さらに驚くべきことは、世界的な業績を挙げた優れた若手研究者がそのような3年、5年任期の非常勤のポストに応募、殺到しているということである(少なくとも私の知っている分野では)。ときどき、テレビのワイドショーなどでXXさんは優秀で国際会議でも発表しています、などと言っているのを聞くが、そんなことは標準的な院生でもしていることである。査読付きの国際雑誌に何本も論文を書いて、何回も引用され、国際会議でもプレナリー講演に招待されるような世界的研究者たちが非常勤のポストを競っているのである。そしてそのような世界に誇るべき国の宝のような優秀な人たちでさえ任期付の何の身分保障もされていない(ブラック)ポストでしか採用できていないことがほとんどということなのである。
 なんという恥ずべき国になってしまったのか!こんな人生設計のできない職業に誰がチャレンジしようと思うのか?
 だから当然、 博士課程進学者がどんどん減少している。しかし、これはむしろ若者の健全な感覚を反映している自然な現象である。ただし、博士課程進学者が減っている先進国は日本ぐらいのものである。(私が大学院入試を受けた時の専攻の倍率はずっと10倍ほどあったが、3-4年前現在では3倍を維持できるかどうかであった。これでも全国の理学系博士課程では最上級に高い倍率であった。現在はもっと下がっているかもしれない。全国の大学の博士課程は選抜入試の意味を維持するのが難しい状況は10年以上前から続いている。一部で「学歴ロンダリング」と言われる所以である。)
 運営交付金は毎年減額されるので、現役の研究者は常に官僚の作った政策に沿う「新しい研究・教育プログラム」を考え、学部、学科総出で申請書を作成し、文科省にお伺いを立てないといけない。そのような状況でも世界に伍する研究成果を継続的に上げている大学研究者は超人のような人たちであり、尊敬に値する。しかし、この人たちは法人化前の環境であれば、世界を突き抜けるような独創的な研究をもっと発表できているかもしれないのだ。 
 「恥ずべき」と言えば、学術振興会特別研究員制度というものがあり、若手を採用し、数十万円の給料と年100万円ほどの研究費を配分する制度がある。この制度のいいところは、その研究費を使って外国の研究所の「留学できる」ことである。ところが、米国などに申請し、先方の研究者、研究所で了解が得られた後、事務手続きになったところで、トラブルが発生する。滞在費は学振の研究費で賄います、という約束なので、そのお金は月いくらですか?、という問い合わせが先方からくる。それを知らせると、
「そんな少額ではここでのちゃんとしか生活が保障できない。預金はあるのか?それで補填できるかどうか確認するから通帳のコピーを送れ!」、
という誠にembarrasingな事態に陥るのである。これを国の恥と言わずしてなんといおう。
 そう、日本はここ数十年社会全体が貧困化しているが、「大学研究者」になるということは、それどころではなく、「食っていけない」仕事を続けるということになってしまっているのである。やりたい「研究」をやりたいための研究費が足りない、というようなある意味「贅沢」を言っているのではないのだ。「食えない」究極の「ブラックな」職業には、いくら研究が好きで能力があっても、よほど金持ちの子女でない限り、人は離れていくだろう。財務省の「選択と集中」政策は、大学の研究職をこれからアカデミアの研究職を目指す人にとっては職業として成立しないものにしてしまった。
 どのような文化的、あるいは経済的営為もすべて人が行っているのである。学問研究をこのように実質「食えない」業種にしてしまっている。科学研究あるいは学問という「新しい知識」を作っていく業界を日本は国を挙げてつぶしていっていると言える。
 財務省の役人は、現在の論文数の減少をこれ見よがしに指摘して、現在の大学人や院生、ポスドクのレベルが低いと言って憚らないが、しかし、常識的に考えて見よ、2000年までのわが国の世界トップレベルの研究者と2000年以降、独法化した後の現在のわが国の研究者は別の人種なのだろうか、何か原因があって「能力」が落ちてしまったとでもいうのだろか?自分たちの政策の無謬が前提の官僚はそういう結論になるようである。彼らにとっての公理は自分たちの無謬性と字面の上の論理的整合性なのであろう。実態と言葉の乖離はそこでは問われていない。そして、彼らは本当の意味の研究、新しい知識を構成していく、という営為をしたことがないのであるから、真実が見えていない。見る観点や見えたことを位置づける概念的枠組みもないのかも知れない。
 それでは2000年までとそれ以降で決定的に違ったことはなんだろうか?それは、国立大学が独法化された、ということ、そして、「独立」とは名ばかりで、法律の縛りから解放された官僚が自分たちの裁量で、すなわち、研究・教育の素人の彼らが彼らの「見識」で好き勝手をするようになったということである。
 そして、財務省は「予算削減」の結論を導くために都合のよいデータ(コンテクストを無視して)を集めて作文しているだけである。研究・教育への洞察を持った目でその実態を見て報告しているのではない。真実かどうかは驚くほど無頓着である。「予算削減」という結論に至るように「意味」に無関係にデータを組み合わせ作文しているだけである。その能力は中学以降の受験で誰にも負けなかった彼らである。自分の作文にほれぼれしているかのようである。 
 繰り返すが、彼らには研究というものが分かっていない。官僚の多くはイギリスやアメリカなどの有名大学の大学院を出ている。しかし、その実態は研究をするのではなく、少し高度のスクーリングを行う外国特有の大学院のようだ。諸外国と違い、博士論文を書いている我が国の官僚はほとんどいないのではないだろうか?だから、彼らは文字通り研究実践についてあまりに無知蒙昧、no ideaなので、元京都大学総長の国立大学協会会長に
「君は教育、研究が分かっているのか?(分かっていないよ!)」、
と叱られると、傲慢にも
「分かっていますよ。馬鹿にしないでください!」、
などと恥ずかしくも逆切れしてしまうことしかできないのだ。
 彼らは、結局、既存の知識の勉強しか知らないから、たとえば、
      独創的な研究とは独創的な問題発見を伴う、
ということが分かっていない。だから、「ギフティッド」を集めればよい、などと思いっきり「研究とは何か、どういう営為かわかっていません!」、と告白してしまう。この発言を是非、その能力があるなら、英語で発信すればよい、そして、諸外国の教育、研究に感心がある人と議論してほしい。しかし、博士の訓練を受けていない、そして博士の学位のない彼らが、PhD取得が当たり前の諸外国の官僚と対等に議論できるか心もとないが。
  ここで、急いで注意したいのは、企業は世界市場で戦っているので、少しづつ(少なくとも)理数系の博士の能力の高さ、有能性、有用性を認識してきているようだ、ということである。だから、理数系の大学院、博士課程までいって自分を成長させることは大いに推奨される。実際、私のいた研究室で博士の学位を取った学生で企業就職希望の者はすぐに企業に就職を決めている。
このような世界認識の企業に対して、高校で数学の必修をやめた方がよい、というようなことを平気で言う人が事務次官をしていたのが文部科学省なのである。このような研究と教育の「素人」の官僚から我が国の研究、教育政策を解放しないと、我が国の大学の教育・研究の未来は暗い。