物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

「松山」二題

私の生まれ故郷は四国の伊予松山である。伊予は文弱の土地と言われ、四国の中で唯一総理大臣が出ていないが、子規や虚子をはじめとする多くの俳人を輩出している。たとえば、内藤鳴雪河東碧梧桐中村草田男石田波郷。ノベール文学賞大江健三郎*1)も愛媛(内子)出身。中村草田男は松山中学で伊丹万作と同級だ。その伊丹万作の長男の映画監督伊丹十三は松山中学の後身である松山東高校大江健三郎と同級だった。司馬遼太郎の「坂の上の雲」によると、子規と同級だった秋山真之も当初は文学者志望であったようだ。彼が日露戦争日本海海戦において打った電報は名文として知られている。

 松山の旧市街はそんなに広くないので、子規の生家は私の家から石手川をはさんだ向こう側、歩いて十分程の距離にある。湯山川と呼ばれていた石手川は、17世紀初頭、加藤嘉明による松山築城の際、家臣の足立重信によって重信川と合流するように流れが変えられた。この重信川は以前は伊予川と呼ばれる暴れ川だったが、足立重信による改修工事により治まった。この功績により伊予川は重信川と改名されたのだった。

 重信川石手川の合流地点は「出合(であい)」と呼んでいた。ここはよい釣り場で、兄や友達と自転車に乗ってよく釣りに行った。

 若鮎の二手になりて上りけり 子規

この子規の句を知ったときは、子規が改めて身近に感じられ特別な感銘を受けた。そのことは、俳句甲子園松山東高校代表として活躍後、早稲田に進み俳人となった神野紗季もどこかで書いていた。そのエッセーでこの句が出合の風景を詠んだものであることを知ったのかも知れない。

松山は我が国最古と言われる道後温泉でも有名かもしれない。松山中学で英語教師だった夏目漱石は小説「坊ちゃん」の中で主人公に、

「ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。」

と褒めさせている。この道後温泉から遍路道に沿ってしばらく行った所に四国八十八箇所の一つ石手寺がある。その横の広場に大きな銅像が立っていた。あるとき、父が

「よく見なさい、郷土の偉人だ。」、

と言った。

「誰?」、

と訊くと、

秋山真之だ。おまえは知らんのか?」

と叱られた。日露戦争日本海海戦の参謀だったという。「天気晴朗なれど云々」の名文句も教えてくれた。そのとき、小さな疑問が浮かんだ。

「大将と参謀はどっちが偉いの?」

ちょっとした間の後、父は言い放った。

「参謀に決まっとろうが!」 

それ以来私の心の底には太っ腹な「大将型」ではなく、知能で貢献する「参謀型」に価値を置く人生観が根付いてしまったようだ。

 

[注] 1) https://biran2008.hatenablog.com/entry/2021/04/16/234405