物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

スティーヴン・ワインバーグ「科学の発見」(文藝春秋社, 2016年)の抜き書きと感想(批判的コメントを含む)

S. ワインバーグの「科学の発見」を読んだ。ここに書かれている事実関係は、広重徹「物理学史 I, II」(培風館 新物理学シリーズ5, 6; 1968年)、伊藤俊太郎「十二世紀ルネサンス(講談社学術文庫 1780; 2006年)、島尾永康「ニュートン(岩波新書黄版88)、あるいは平凡社加藤周一編集「世界百科事典」等々を通して知っていた内容である。実際、ある私立大学の文科系学生向けにこのテーマで20年近く講義をしていた。そういう私から見ると基本的な観点で違和感を持つところもいくつかある。しかし、この本には初めて知る事実が少なからずあり、また、様々の事実に対するワインバーグの評価、感想が興味深くまた教育的であった。そこで、おもしろいと思ったことを抜き書きし、ところどころに私の感想を書き、最後に批判を含むコメントを書いておく。

 

ギリシャ科学の衰退はキリスト教の興隆のせいか?(p.76)

313年、キリスト教コンスタンティヌス一世によって公認され、380年、テオドシウス一世によって国教と定められた。この時代に、ギリシャ科学の偉大な業績は終わりを迎えようとしていた。(p.77)

(しかし、)全般的に見れば、聖書の記述と科学知識との直接的な衝突がキリスト教と科学の緊張関係を生んだ重要な原因だとは思えない。(p.79)

これよりずっと重要な原因は、「異教徒の科学は、キリスト教徒が取り組むべき霊的な問題から人の心を逸らすものだ」という初期キリスト教徒に蔓延していた考え方にあったものと思われる。(p.79)

もう一つの要因は、キリスト教が教会での立身出世の機会を、知的な(つまり、違う道を選んでいれば数学者や科学者になったかもしれない)若者に提供したことだった。司教や司祭は一般的に、通常の司法による支配や納税義務を免れていた。 (中略) 司教は、アレクサンドリアのムセイオンやアテネアカデメイアの学者よりずっと大きな政治的権力を振るうことができた。(中略) 多神教世界においては、富と政治権力の持ち主が宗教上の要職を占めるのであって、宗教者が富と権力を握るわけではなかった。(p.80)

[コメント(TK)] 

 この「司教や司祭」を「病院長や開業医」に置きかえれば、そのまま現代のわが国の科学の衰退や社会全体の活力の減退を説明するかもしれない。そして、それは大学入試における医学部受験者の異常な増大とそれに裏腹な関係として数理に優れた若者の理工学部への進学の単調な減少という近年の現象と整合的である。そのような趨勢がもたらした現代日本の状況、特にテレビなどのメディアに見られる状況は、ギボンが「ローマ帝国衰亡史」の中で苦々しく記述した以下の状況に酷似しているかもしれない:

アテネの学園にとって、ゴート族の武力さえ、新しい宗教の創立ほどに致命的ではなかった。聖職者らは理性の行使を不要とし、どんな問題も宗教上の心情によって解決し、異教徒や懐疑論者に永遠の業火を宣告した。無数の面倒な論争の中で彼らは知性の脆弱と心の堕落を支持し、古代の賢人の人間性を侮辱し、教義にとって不快な、あるいは少なくとも卑屈な信者の気質にとって不快な哲学的探究精神を禁止した。」(Gibbon, `Decline and Fall', Chapter 40, p.231.) (p.81)

 

第7章 太陽、月、地球の計測

過去の偉人たちが軽視してしまった、実験結果の不確実性(p.100)

アリスタルコス の科学と現代科学との違いを際立たせているものは、彼の観測結果の数値的誤りではない。(中略) アリスタルコスと現代天文学者や物理学者との本当の違いは、彼の観測データが誤っていたことではなく、彼がデータの不確実性(誤差:TK)の評価をおこなおうとしなかったこと、あるいはそのデータが不完全かもしれないことを認めてさえいなかったことにある。(p.100-101)

 現代の物理学者や天文学者は、実験結果の不確実性を肝に銘じるよう教え込まれている。(S.ワインバーグが学部学生時代取った必修の)実験講座の授業時間の大半は、測定結果の不確実性(誤差:TK)の評価に費やされた。しかし、歴史的に見れば、この不確実性(誤差:TK)に注意が払われるようになったのはつい最近のことである。(中略) ニュートンでさえ実験の不確実性(誤差:TK)を軽視することがあった。

[コメント:TK」この実験の測定誤差や系統誤差の軽視は物理以外の学問分野、特に、医学分野では未だに見過ごされているかもしれない。実際、病院でいやというほど受ける「検査結果」に「誤差棒」や誤差の評価数値が付いているのを見たことがない。

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第十章 暗黒の西洋に差しこめ始めた光

科学再興のさきがけとなった男、ビュリダン(p.180)

ビュリダンは、科学原理の論理的必然性を認めない経験主義者だった。「原理というものはすぐに分かるものではない。(中略) 原理は、それが証明できないが故に原理と呼ばれるのだ。他の前提から推論することも形式的手順によって証明することもできないが、多くの事例において真実であることが観察され、いかなる事例においても誤りであると観察されないが故に受け入れられるものが原理と呼ばれるのだ」(p.181)

  科学の将来にとっては、これを理解することが不可欠だった。そして、それは簡単なことではなかった。純粋に演繹的な自然科学という、プラトンが目指した到達不可能な目標が、注意深い観察の注意深い分析に基づいて築き上げるしかない進歩を阻んでいた。(現代のその間違った事例として、ピアジェが「子供は生まれながらに相対論を理解している」、と言っていることを指摘している。) (p.181)

 ビュリダン(1296頃ー1358頃)は経験主義者ではあったが実験主義者ではなかった。(p.181) (ガリレオとの違い:TK)  

   (ビュリダンは投射物体の運動を理解するために「駆動力(インぺトゥス)」という概念を導入した。そして、そのアイデアを円運動にまで拡張し、惑星の運動の維持を理解しようとした。)(p.182)

 ビュリダンは科学と宗教との妥協案を模索していた。これは、「宇宙の仕組みを最初に動かし始めたのは神だが、その後は、宇宙は自然法則に支配されて動いている」という、数世紀後に流行した妥協案の先駆けだった。(p.182)

 ビュリダンのインペトゥスの概念は、数世紀にわたって影響力を持ち続けた。1500年代初めにコペルニクスパドヴァ大学で医学を学んだときにも、インペトゥスは教えられていた。ガリレオも、十六世紀後半にピサ大学でこれを習った。(p.183)

第四部 科学革命

 物理学と天文学は、十六世紀から十七世紀にかけての革命的変化を経て現在のような形を取るようになり、それ以後の全科学の発展に模範を示した。(中略) たとえば、ハーバート・バターフィールドは、科学革命の重要性は「キリスト教誕生以来のあらゆる出来事に勝っている。これと比べれば、ルネサンス宗教改革も単なるエピソード、つまり中世キリスト教世界の枠内での単なる配置転換に過ぎない」(``The Origin of Modern Science', rev. ed. (Free Press, N.Y., 1957; p.7)と断言している。(p.196)

 ここ数十年の間に、科学革命の重要性を疑問視する論調が見られるようになった。(たとえば、S. シェイピン「科学革命」(1996)。) その批判には、二つの相反するタイプがある。(一つは、16-17世紀の科学的発見は中世ヨーロッパやイスラム諸国で既に始まっていた科学的進歩の自然な延長に過ぎない。二つ目は、「科学革命」を担った人々の著作にはプラトンの影響がある、とか、占星術をやっていたとか、聖書の研究をしていた、とか。)(p.196)

 どちらの批判にももっともな部分はある。しかしそれでも、「科学革命は、精神史をそれ以前とそれ以後に二分するリアルな転換点だったのだ」と私は確信している。現代の現役科学者の観点から、私はそう判断する。二~三の古代ギリシャの輝かしい例外を除けば、十六世紀以前の科学は私にとって、自分や同僚たちがおこなっていることとはまるで違うもののように思われる。(それらの科学は宗教や「哲学」と不可分に結びついていたし、数学との関係も解決していなかった。) 十七世紀以降の物理学と天文学には、そんな違和感はない。(中略) それは数学的に表現された、客観的法則の探究である。それらの法則が、様々な現象の正確な予測を可能にする。そしてそうした予測を観測や実験結果と比較することで、法則の正当性が立証される。

 科学革命は確かに存在した。(p.197)

[コメント] このことがこの本でワインバーグが最も言いたかったことのようである。

(この後、コペルニクス、チコ・ブラーエ、ケプラー、そしてガリレオの業績の紹介が続く。それらはほとんど、たとえば、広重徹「物理学史 I」に書かれているような周知の事実である。)

 ニュートン理論の勝利 (p.317)

(前略) (ニュートン理論に) いろいろと反対意見はあったが、結局のところ、 そんなことは大した問題ではなかった。ニュートン物理学の正しさが次々と証明されていったからである。

(1) ハレーによる(ハレー)彗星軌道が放物線になり観測データと一致することの証明、(2)クレローによる摂動計算によるハレー彗星の18年後の近日点到着年日の予言とその観測結果の一致(1759年4月)、(3) ダランベールによるニュートン理論を用いた春分点歳差の正確かつ精密な計算(1749年)。

ニュートンの理論はついに世界中で勝利を収めた。(p.318)

 それは、ニュートンの理論が従来の形而上学的基準(「目的」という問題に答えを出していない、ということ:引用者注)を満たしていたためではなかった。(中略) だが、それは、それまで謎に包まれていた多種多様な現象の計算を可能にする普遍的原理を提供した。こうして、ニュートンの理論は、物理理論の規範と可能性を示す強固なモデルとなった。(p.318)

 これは、ある種のダーウィン的淘汰が科学史に働いていることを示す一例である。(中略) 何かが見事に説明されたとき、われわれは強い喜びを覚える。後世にまで残る科学理論や科学手法とは、科学研究に関する既存のモデルに適合しているか否かにかかわらず、こうした喜びを提供するものである。(p.318)

 (ニュートン理論に反対した人たちがいたことの教訓) ニュートンのような、数多くの観測結果を見事に説明する理論を考えもなしに否定してはならない、という教訓(中略) その理論がうまく機能する理由を考案者自身も正しく理解していない場合もあり得るし、科学理論はいずれ、さらにうまく機能する理論の近似理論だったと判明するものだが、それらは決して単なる誤りではない。(p.318)

 (この教訓に基づく、量子力学に反対したアインシュタインシュレーディンガー批判。p.318) 量子力学理論をこうした超一流の物理学者が否定したという事実は、1930年代から1940年代にかけて達成された個体・原子核素粒子物理学における偉大な進歩に彼らが参加できなかったことを意味している。(p.319)

 アインシュタインの(相対性)理論とニュートンの理論の違いは、ニュートンの理論とそれ以前のどの理論との違いよりもずっと小さい。(p.324)

我々はどうして現代科学を発見できたのか(p.325)

ほんのときたま、誰かが何かの現象を説明する方法を発見した。その説明が適切で、多くのことを解き明かせるときは、それは発見者に強い満足を与えた。(例:(1) エカントというアイデアを思いついたときのプトレマイオス。(2) プトレマイオスの体系に必要なファイン・チューニングと螺旋軌道が太陽中心説で解消できることに気が付いた時のコペルニクス。(3) コペルニクスの込み入ったモデルを、楕円軌道のアイデアを含む自らの三法則で置き換えることができたときのケプラー。)(p.326)

 つまり、世界はわれわれにとって、満足感を覚える瞬間という報酬を与えることで思考力の発達を促すティーチングマシンのような働きをしているのである。

[コメント: TK] ここでのワインバーグの説明は今流行の機械学習の用語を用いて、以下のように理解できるかもしれない。我々人類はあたかも「教師付き機械学習」を行うAIのように自然認識の方法を改善し、その認識の精度を改良してきたのである。もちろん、「教師」は世界/自然である。

 われわれは、目的というものを気にかけなくなった。(「気にける」のは求める喜びに到達する方法ではない。こうしてわれわれは) (1) 不確実性(誤差)を許容することを学び、(2) 設定する条件が人工的であることを気にせず実験することを学んだ。) そして、それがうまく機能したときには喜びを増してくれる、一種の美的感覚を発達させた。人類の世界の理解は蓄積していくものだ。その道のりは計画も予測も不可能だが、確かな知識へとつながっている。(p.326-327)  

 第十五章 エピローグ、大いなる統一をめざして (p.328)

( 生物学と地質学の特異性:歴史的偶然性の介入)

生物の現在のありようは物理法則に従ってそうなったのではなく、そこには無数の歴史的偶然が関わっている。(中略) こうした偶然の中には統計学的に理解できるものもあるが、一つ一つの偶然を個別に理解するわけにはいかない。(中略) 生物学の一般原則はすべて、歴史的偶然(定義上、これを説明することは不可能である)とともに基本的物理法則によって成り立っている。(p.341)

 統一された自然観への道のり (「還元主義」擁護の主張が述べられる)p.341

たとえば、熱力学はさまざまな系に適用できる。(p.341) (中略) 多数の分子を含む系だけでなく、巨大なブラックホールの表面にも適用できる。だが、何にでも適用できるわけではないし、熱力学が特定の系に適用できるかどうかを問題にするとき、さらに、適用できる場合にその理由を問題にするときには、さらに深い、さらに真に基本的な物理法則に言及せざるを得ない。この意味では、還元主義は科学的手法を改革するためのプログラムではない。それは、なぜ世界がこのようなものであるのかという一つの見解なのである。(p.342)

------------------[以上、「科学の発見」の引用とコメント終わり]-------

[引用に結びつかない個人的コメント](2022/0916)

ワインバーグの「科学の発見」には書かれていないか強調されていない事実/観点で、私が広重徹「物理学史I」やその他の科学史関係の図書から学んだことを全体の補足として書いておく。また、「科学革命」という現象に関してなお残る疑問も書く。

1) コペルニクスケプラーにおける「プラトン主義/ヘルメス思想」の影響

  星の天体上の運行の記述の精確さにおいてはプトレマイオスの「天動説(地球中心説)」と変わりのない「地動説(太陽中心説)」をなぜコペルニクスケプラーが発想し、拘ったのか?そのヒントは、たとえば、コペルニクスの「天体の回転について」に書かれているように、彼にとっては「生命と光の源である太陽」は宇宙の中心に位置することが自然であった。そのような太陽崇拝はルネサン期に流行したプラトン主義/ヘルメス思想(プロティノスフィチーノ等)に由来する。それはケプラーも同様である。ちなみに、したがって「地動説/天動説」ということばを使うよりはそれぞれ「太陽中心説」および「地球中心説」と呼ぶ方がその思想背景を正確に記述している。

2) 自然法則」という観念の成立とヨーロッパ社会

 個々の技術や自然認識においては中国をはじめとしてヨーロッパ以外の地域でも独自の発展があった。しかし、「自然法則」として普遍的な体系に整理したのは16-17世紀のヨーロッパが初めてである。それはなぜだろうか?以下、フランツ・ボルケナウのDer Übergang vom feudalen zum bürgerlichen Weltbild.(1934年)(「封建的世界像から市民的世界像へ」水田洋他訳 みすず書房、1965年)やE. Zilselに依拠した広重徹の説明を紹介する(「物理学史 I」p.17-18).

   「自然は自立した存在であって、その現象は普遍的な、例外を許さぬ法則に従って整然と経過してゆくという観念があってはじめて、自然法則の探究を目的とする科学が成り立つ。」自然法則という観念は実は人類とともに古いわけではなく、16-17世紀のヨーロッパで成立したものであり、その成立においてデカルトの果たした役割は大きい(この点は、ワインバーグ「科学の発展」において無視されている)。

 実際、ギリシャ哲学においては「必然という観念はあっても、自然がそれに従う法(則)という考えはなかった。」中世ヨーロッパのスコラ学での基本カテゴリーは実体と属性、質料と形相であり、「法則というカテゴリーを欠いていた。」「ベーコンやギルバートそしてガリレオでさえ、明確に自覚的に``自然法則"という観念を形成していない。ガリレオは「法則性のことを``本性"とか``秩序"とかのことばで表している。しかし、デカルトになると、はっきりと自然にはある``法則"loisが確立されており、宇宙に存在し、生起する一切は厳密にこれに従う、という考えを表明し、自然についての学問は、まず自然の根本法則を見いだすことに努めなければならないと強調している。(「方法序説」第5部の初め等)」そして、ニュートンの「プリンピキア」において、「``現代人は、実体的形相や隠れた質をしりぞけて、自然現象を数学的法則に従わせることに努力した""と述べ」られるに至った。

 それではこの自然法則という観念の起源はどこにあるのであろうか?その起源としては二つ考えられる。「一つは、立法者としての(一神教の:TK)神が自然に課した法的規則という宗教的観念である。」「トマス・アキナスがこの考えを大成して、人間も自然も同じ(一神教の:TK)神の定めた法に従うと主張した。」自然が人間からはなれて自立していく過程の解明は近代思想史形成の重要テーマである。

 「もう一つの根は、職人たちがその技術的な仕事の中で求めた、仕事をうまくなしとげるための量的な規則である。」ガリレオはそのことに注意を払っていた。「しかし、問題は、この技術的規則という観念が、神が自然に課した法という観念といかに結びついたか、ということである。」

 その結びつきが17世紀ヨーロッパで起こったのは、「高度に発展した中央集権的な絶対主義国家が形成され」、「このような社会形態が、人々が自然をみるときのモデル、概念的な枠を提供することになったのである。すなわち、神は王に、自然法則は法律に、そして自然は理想的な法治国家になぞらえて理解されることになっていった、と解釈されるのである。」

3) ジョルダノ・ブルーノの「無限宇宙論」とニュートン慣性の法則

 ガリレオは「運動の合成可能性」ならびに「相対性」の原理を明確に述べ、運動学の成立において決定的な役割を果たした。また、物体に力が働かないときの物体の運動は等速運動である、という言明もしている。しかし、彼の等速運動は「等速の円運動」であった。力はベクトルであり、力が働かないときの運動ばベクトルとしての速度一定の運動であり、それは大きさだけでなく方向を一定の等速直線運動である。ニュートンの運動の第一法則は「慣性の法則」であり、それは正しく「物体に力が働かないとき、物体は静止を続けるか等速直線運動を続ける。」となっている。それでは、ガリレオニュートンの間に何が起こったのか?

 それは、ジョルダノ・ブルーノの「無限宇宙」という観念の存在である。ガリレオキリスト教の教義を疑わず有限宇宙論を前提としていた。そこでは無限に続ける直線運動は「不自然」である。一方、無限宇宙論を前提とすれば、等速直線運動を想定することに心理的抵抗はなくなる。このように、ニュートンによる近代力学の成立においては空間概念の革新が前提としてあった。

 因みに、ブルーノもヘルメス思想の影響を強く受けていたことが知られている。15世紀フィレンツェで活躍したフィチーノや彼が広めたヘルメス思想の近代科学の成立への影響については、山本義隆著「磁力と重力の発見2」(みすず書房 2003年)でも詳説されている。

                                                                                                              [以上](2022/0916:10/11補訂)