物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

きさらぎの雪鎧ひけり會津墓碑 楓子(昼寝の会) 鑑賞

 會津墓地は京都黒谷金戒光明寺にあり、ここは京都守護職會津藩の本陣でした。お寺のウェブページの解説

 


によると、当時京都は

「暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた」。

そこで、京の町衆は京都守護職としての會津藩士の入京を人垣を作って大歓迎したそうです。ところが、薩長のクーデタの成功の後、會津藩は「鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられ戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置され」たままになるという悲劇を生みます。
 このような背景を知ると、雪を「鎧ふ」という措辞が秀逸と感じます。2月のまだ冷たい雪をかぶった墓碑は、時代の理不尽な波の中で命を落とした会津藩士の哀しい運命を暗示しているでしょう。しかし、「鎧ふ」という措辞は、武士として戦闘の中で死んでいった会津藩士の名誉を重んじる役割を果たしています。會津藩士への同情心のこもった格調高い句となっています。


 因みに、鳥羽伏見の路上に放置されたままの會津藩士の遺体はその後どうなったでしょうか?これについてはとても興味深いエピソードが上のウェッブページに紹介されています。以下、ウエッブページからの引用です(少し手を入れています)。會津墓地西側の西雲院庫裡前には「侠客 會津小鉄」の墓が」あります。彼は、鳥羽伏見の路上に放置されていた會津藩士の遺体を「子分二百余名を動員し、迫害も恐れず収容し近くの寺で荼毘に付し回向供養したそうです。會津藩松平容保京都守護職在職中は表の家業は口入れ屋として、裏は、新選組密偵として大活躍をした小鉄は、以後も「容保公の恩義に報いんが為に黒谷會津墓地を西雲院住職とともに死守し、清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っているとのことです。