物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

鈴木大拙を「かじって」みたら、「もう読むのはやめよう」、と思った話

以前、白洲正子著「いまなぜ青山二郎なのか」白州正子「いまなぜ青山二郎なのか」、小林秀雄のこと - 物理屋の不定期ブログ (hatenablog.com)

を取り上げたとき、そこでその「ニセモノ性」が彼ら仲間内で批判されていた小林秀雄に関する個人的思い出と現在での彼への評価を書いた。その小林秀雄と同方向でもっとその絶対値が大きい著名「文化人」として鈴木大拙がいることを発見した。

 私はNHKTVの「100分で名著」やラジオ第2放送で放送される「文化講座」や「宗教の時間」をよく(often)聴いている。今年の「宗教の時間」で取り上げられたのは鈴木大拙だった。最初の部分をラジオで聴いておもしろそうなので、前期のテキストを買って読んだ。前半は伝記的な内容だ。彼の思想内容やその説得性に何かしら曖昧なところがあるように感じたが、まあ、伝記だからしょうがないと思い、後期の思想内容の放送とテキスト販売を待った。そして、後期が始まり、私は第一回を聴くとともに後期テキストを買って第一回分を精読した。これは「日本的霊性」の解説だった。これが実は大拙法然-親鸞の浄土(真)宗理解の開陳であることが分かった。私は、真宗系の大学の教員を長年務めていたこともあり、少なからず興味を抱いた。

 そこで、かなり以前に購入してほとんど読まないままであった岩波文庫「日本的霊性」を読んでみた。現在100ページほど読んだところだ。しかし、いくつも章分けしているにも関わらず、ずっと同じことを言っている。真宗の本質は「他力本願」、そしてそれを教えの核として親鸞が位置づけできることができたのは、越後や常陸で農民の中に入り直接我が日本国「大地」と交信するという経験ができたからだ。

 このことを、文献を上げることもなくただただ言いつのっている。大体なぜ「大地」といわないといけないのか?「霊性」を読むとむしろ「農民大衆」あるいは「人民」と言う方が適切なように思う。「大地」というのは親鸞が実際農作業をしたはず!と主張したいからなのか?

 これは、何らかの主張をする文章、ドキュメントとして全く体を成していないと思った。思い込みの激しい少し生意気な中学生が書いた文章、と言われても私は疑わなかったろう。少なくとも、必要な基礎となる系統的「知」が欠如している、あるいは供給されていない。また、著者にそれがあったとしてもそれを文章だけで論証する技術的訓練を受けていない「素人」の文章のようだ。確実な事実を基礎に、新たな観点やアイデアに基づき、推測も含め、ただし、それが事実の裏付けを持たない推測であることを自覚しつつ、論理的に文章を綴っていく、ということになっていない。「本当かも知れない」著者の思い込みをこなれの良くない、あるいはすわりのよくない的確でない言葉を用いて言いつのっていく、そういう文章だ。現代の研究者養成の観点から言うと、この著者は論証的文章によって真理を提示するための必要な訓練を受けていない、そのための必要な批判を受けて成長しきれていない、という強い印象を持つ。

なぜ、このようなレベルの文章が岩波文庫になっているのだろう。これを岩波文庫としてありがたがる人たちの権威主義に私は憤りを感じる。

 実は、私は大拙の「禅と日本文化」と「続 禅と日本文化」(両者とも岩波新書)も拾い読みした。特に、「禅と俳句」の章は精読した。先生について俳句を少しやっていて、俳句関連の図書もかなり読んでいる者からすると、この「禅と俳句」も杜撰極まりない文章と感じる。俳句をいくつか紹介し、それらの大拙解釈を「禅」のことばで綴っているだけなのだ。せめて、俳句の元である連歌とか連句の発祥と時代背景、そしてそこにあり得る「禅思想」の影響、というような話立ての部分が必要だろう。そうすれば「禅」と「俳句」にintirinsicな連関が説得的に記述されることになる。この「禅と日本文化」も大拙の傲慢な思い込みによる勝手で粗雑な作文でしかないようだ。

 ここまでの感想を抱いて、大拙のニセモノ性をこれまで誰も指摘していないのかとネットを調べてみた。すると、ちゃんとある。

 たとえば、長澤弘隆と言う方のブログ

www.mikkyo21f.gr.jp

この中に、系統的な

鈴木大拙を問う」、「西田幾多郎を問う」、「補説:鈴木大拙 西田幾多郎を問う」がある。これらの文章は上に書いた私の半ば直観的な感想を体系的に敷衍、論証したものになっている。そう言えば、末木 文美士氏も岩波「図書」で大拙の著書に批判的に言及していたように記憶する。