ここ1週間ほどNHKの「らじるらじる」で朗読の世界の林芙美子「浮雲」を布団の中で聞きながら寝落ちするのが日課になっている。林芙美子は亡くなった母の好きな作家だった(ようだ)。「浮雲」はかなり前にNHKBSでたまたま成瀬巳喜男監督の映画「浮雲」の最後の場面をちらっと見た記憶がある。森雅之と高峯秀子が(どういういきさつか知らないが)屋久島の小さな小屋で陰鬱な会話をしていたことを記憶している。
さて、寝落ちのために聞いていた「浮雲」は戦後の最終盤からなのだが、その適格で美しいことばと文章、戦後の世相の記述とそして何よりも中年男女の性愛描写を含むリアリズムに驚いてしまった。一言で言えば「文学性の高さ」。林芙美子は本物だ。
YouTubeを検索したら林芙美子の多くの作品の朗読が載っていた。今日そのうちの「文学的自叙伝」を聴いた。多くの発見があった。まず、その少女ころからの圧倒的な読書量。そして、詩心。昭和に入って30歳前にフランス、イギリスに遊学した話が出てくる。そこの小さなエピソードに、
眼を
この渡辺一夫は後の東大の仏文の教授で大江健三郎の師匠だろう。渡辺一夫は林芙美子をどう評価していたのだろう。また、大江は林芙美子を読んでいただろうか?
しかし、一番感銘を受けたのは、ヨーロッパ生活を経験する中で、日本文学、詩、そして日本語の美しさを発見し、悟った、という次の一節である:
欧洲にいると、不思議に詩が生活にぴったりして来ますし、日本の言葉でうたった日本の詩が、随分美しく聞えるのです。日本の言葉はきたないから詩には不向きだと云うひともあるけれど、随分もったいない話で、私は欧洲にいて日本の言葉の美しさ、日本の詩や歌の美しさを
日本の言葉の一つもない欧洲の空で、
帰国後、そのような国際化した評価眼で(外国知らずの)日本の若い作家を見たときの評価:
日本へ上陸するなり考えたことはすばらしい詩を書きたいと思ったことです。血の気のない古色をおびた小説が私の眼にうつり始め、私は日本の若い作家に軽い失望を感じたりしたのです。一年あまりの欧洲滞在で、私は感覚ばかりが
そして、当時33歳の彼女の文学感が披瀝されます:
曲りなりにも血の気の多い作品を書きたいと思っていたのです。日本のいまの文学から消えているものは詩脈ではないかと思ったりしました。詩のない世界に何の文学ぞやと思ったりしました。ちつじょ立った大論文も書けないので、いまさら詩を論じることは笑われそうだけれども、私は欧州で感じた日本の言葉の美しいのに
詩心が文学の核心であり、自分は美しい日本語で書かれた日本の詩という「金鉱」を発見したのだ、という「誇り」。それが、彼女のその後の文学的営為を支える矜持となったのであろう。現在、現代日本文学が翻訳され欧米だ大人気だそうだが、翻訳すべき日本文学のリストに林芙美子も入れるべきではないか、と思った。