秋の暮みんな帰って終ひけり 大出岩子 (p.11)
あれだけにぎやかだったのに、みんな帰ってしまった。事実をそのまま
記述した「写生」の極致のような句。しかし、突然の手持無沙汰と心に
できた空洞の大きさにただ呆然とする様子がみごとに表現されている。
「秋の暮」という季語が秀逸であり、それに呼応した「終ひけり」の切れ字
によって素晴らしい韻文となっている。
「橡」十一月号の沖崎青波作
燕去り元の独りに戻りけり
と技巧、句意ともによく似ているように思う。
(2023/12/21 改訂)
黒柿の卓の焦げ色夏行けり 北山秀明 (p.13)
黒柿の一枚板の卓だろうか?その焦げた色が以前と微妙に違って少し優しく
淡く見えたのだろうか。ああ、夏が終わったのだ!黒柿の板からの反射光の微妙な
違いを感じ取ることのできる繊細な詩人の観察眼。
名月を待ちて鎮もる響灘 北山秀明 (p.13)
「鎮もる」の措辞がすばらしい。厳かな雰囲気を持つ一幅の絵のようである。
月今宵博多屋台の端に座す 北山秀明 (p.13)
市井の民である私もこうして町の片隅で身を慎んで名月を寿いでいる。謙虚な(modestな)作者の人となりがよく表れていて好感が持てる。
海底の闇の染みたる穴子割く 北山秀明 (p.13)
穴子を割く。深い海の底でこの穴子は何を見、何を感じていたのだろう。
その深い海底の闇の秘密が、パンドラの箱を開けたように、今溢れ出ているのか。
甲板にうどん旨しや春の潮 宮地玲子 (p.16)
作品の良し悪しの前に、昔よく食べた宇高連絡船の船尾で食べた讃岐うどんの味と
「こし」が忘れられない私にとっては、自分のつぶやきのような俳句。
実柘榴の爆ぜて夕日を集めをり 布施朋子 (p.20)
「爆ぜて」という措辞が大口を開けた柘榴を表現していてすばらしいと思う。
その柘榴の「赤」は夕日を受けてよりいっそう鮮やかというのだ。私には真似の
できないうまさ。俳句を読み/詠み始めて間もない私が、初めて「うまい」ということが感じられた句。
葉痕に目あり鼻あり冬の森 布施朋子 (p.20)
枯れた木の葉の穴や痕が人間の顔の目や鼻に見えることがよくある。それを
その見たままを五七五の文字の列に変換した素直な軽みのある句。
これを「俳味」というのだろうか?
斎藤博文「風鈴」より (p.45)
アカシアの花の蛇行や千曲川
川の蛇行を川に沿って咲くアカシアの蛇行として表現しているのがおもしろい。
まだ青き椎の実降れり無言館
無名の若い画学生の絵を集めたという無言館。落ちてきたまだ青さの残る椎
の実はその思い半ばにして戦士した画家の卵たちなのだろう。
自画像の眼は生きて終戦日
若くして死んでいった画学生の自画像の「眼(まなこ)」は生々しい。
希望に溢れた青春真っただ中の作者がモデルなのだ。しかしその分、
若き学徒の死の痛ましさが胸に迫る。その「眼」は脳裏に焼き付いて
離れない。
君を待つ未完の裸婦図蝉しぐれ
いい名づけかあるいは新婦を描いた未完の裸婦像。彼らが紡ぎ始めた
新婚生活も未完のまま。二人そろっての完成を期して裸婦図の新婦は
画家の帰国をずっと待っているのだ。蝉しぐれは新婚間もない夫を戦争で亡くした
新婦の慟哭かのように聞こえる。