物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

桑原武夫の谷崎潤一郎「陰影礼賛」批判---長谷川櫂氏の和の思想と「陰影礼賛」批判に関連して---

最近、YouTube「未来に残したい授業」シリーズの中で著名な俳人長谷川櫂氏の「和の思想とは 谷崎潤一郎の「陰影礼賛」から読み解く「和」への誤解と本来の姿」というのを視聴した。これは2022年に録画されたものである。谷崎「陰影礼賛」初出は「経済往来」1933年12月号と1934年1月号、初出版は1939年である。

 長谷川氏は、「陰影礼賛」における谷崎の付け焼刃的な日本文化論とその深刻な害悪性を指摘している。氏は谷崎の根本の間違いは「陰影礼賛」の第一行目、

  「今日、普請道楽の人が純日本風の家屋を建てて住まおうとすると」

という文中の「純日本風」というものの存在を無批判に仮定しているところにあるのだ、と指摘する。まず、純日本風、あるいは純和風とは何か定義できるであろうか?長谷川氏は京都の和菓子屋さんから和菓子とは明治より前までに日本で食べていたものである、したがって、カステラも和菓子である、ということを聞いてひどく驚いた逸話を披瀝している。これから、氏は純粋XXとか言った途端に誤った結論が必然となること、一般に日本文化の本質はある歴史的時間における固定された文化集合ではなく、外来も含む様々の文化にフィルターを掛け、変容させるその機能の仕方、動的作用にあるのだと主張し、強調する。さらに日本の場合、その機能を担保するのは日本の蒸し暑い夏の気候ではないか、と「唯物論的」な考察をされている。

  固定された「純和風」の「もの」の存在を前提とする谷崎は、確かに、たとえば、扇風機や電灯が純和風建築に相性が悪い、といって開き直り「陰影礼賛」を押し上げているのだが、21世紀の我々は扇風機も蛍光灯もLEDも和風建築に馴染んでいることを知っており、谷崎の主張が全く滑稽に聞こえる。確かに、和の本質はその文化的フィルタリングと変容のさせ方という動的な機能にある、とする方が実態に合っていて合理的のようだ。

   ところで、同年の2022年に氏は同じくYouTubeで「和の思想 ---日本人の創造力---」と題した対談を牧野篤東大教授と行っていて、そこでもこの谷崎「陰影礼賛」を取り上げ同趣旨の内容を述べられている。この対談で氏は、白色人種に対する有色人種の劣等生を認めるようなほとんど人種差別的な主張を含む谷崎の「陰影礼賛」に対する批判がこれまで(ほとんど)ないことの問題性を指摘している。

 実は、この戦前の書に対して戦後すぐ、1947年3月「文芸」において桑原武夫

 「谷崎潤一郎氏のインエイ・ライサン」

と題した辛辣な批判を行っている:桑原武夫集2(岩波書店、1980年5月)p.185 参照。全集で6ページほどの長さなので、以下、その内容を紹介しよう。

1)  まず、この文章の権威主義的な傾向、またそれに繋がる不誠実さを示唆する次の事実を暴露する:

  「白木屋の番頭と中学生を合わせて二でわると漱石になる、などという警句でかつてわれわれを喜ばした谷崎氏が、今はことごとに漱石先生がおっしゃった、というような表現に変わっている、、、」

これは、谷崎自身の評価を隠して、漱石を高く評価する世間に阿っていることを示唆しているだろう。

2)「この本には面白く説明しようとしすぎて間違いも若干ある」こと。

 たとえば、「漆器の美しさは薄くらがりを予想して作られたのだというけれど」、「ロウソクが発達して芸術の鑑賞のできる夜の世界が生まれたのは、戦国時代あたりからで」あるが、「日本の漆器は、金蒔絵でも大たい鎌倉時代からであって室町時代には完成した。」ところが、「その頃は灯は油に灯心だから蒔絵の模様など見分けもつかない」。だから、上記谷崎の事実認識は全くの間違いである。

3)異国情緒趣味(エキゾチズム)が多すぎること。

  「この本はいわゆる日本的美を説きながら、日本人としての自覚が少ない。つまり著者の名をハーンだとかタウトに変えてもいいようなところ、異国情緒趣味(エキゾチズム)が多すぎはしないか。」

4)下品な成り上がり者の貴族主義みたいな感じがあること。

 「谷崎さんも若いころは中々西洋ずきで(中略)スタンダールの「カストロの尼」の反訳をしたこともあり、一方、日本のものはなるべく見ないようにわざと目をとじてきた、それは伝統精神に引きこまれるのが恐ろしいからだ、などとどこかに書いたこともある。それがいつしか日本に帰った。」(中略)「日本に帰ったことに文句をいうのじゃないが、ともかく谷崎さんが一種の美的貴族趣味を説きながら、そこにいつも何か(中略)成り上がり者の貴族主義みたいな感じがある、」(中略)「はじめからいわゆる風雅の世界に育った人なら、ああいう書き方はしまい。もっと気品があるだろう。いやおそらく沈黙しているだろう。」

5)背景に西洋人に対するインフェリオリティ・コンプレックス(劣等感)がある。

  「あそこに礼賛されているような美的生活、それを日本人の何パーセントができるのだろう、(中略)江戸時代でも。昭和十三、四年ごろでも。またああいう生活は無数の奴婢の使用を予想する、それがみんな日本人だ。」(中略)「ところが、そうしたことが心をかすめた気配もない、」芸術的直観とも自覚とも無関係な「たんなる逃避だよ。近ごろの日本賛美論はみなそうだが、西洋文明にあこがれ、またはそれを取り入れざるを得なくなったものの、十分消化するのがむつかしい。そこで西洋の普通人の生活と日本の少数上流人の生活と比べてみて、こちらの方が奥床しいという。そこにはいつも、西洋の普通人の生活にさえ何か手のとどきかねるものを感じて、自己を特殊化して観念的に救われようという、一種のインフェリオリティ・コンプレックスがある。」

(中略)「つまり日本人一般の生活を忘れて「日本的な」美だけを賛美しうるということは、エキゾチズムともいえエゴイズムとも言えるのだ。」

 

桑原のこの文章は、角屋の「松の間」の谷崎の文章の引用箇所に桑原が角屋の常連であることを示す「赤前垂をかけている」(年増の仲居)、という言葉を挿入してからかって終わっている。この挿入に気が付いた人は誰もいなかったそうである。

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[補足] 2024年1月16日

松岡正剛による谷崎潤一郎「陰影礼賛」批判:

0060夜 『陰翳礼讚』 谷崎潤一郎 − 松岡正剛の千夜千冊