物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

物理屋の「けんか」の作法---小柴昌俊著「物理屋になりたかったんだよ」(朝日新聞社、2002年)再読

この本は、巻末にある尾関章朝日新聞大阪本社科学医療部長(当時)のあとがき「インタビューを終えて」によると、氏が2002年8月から9月にかけて小柴昌俊宅を訪ねて延べ約10時間にわたって行ったインタビュー記録をもとに(朝日新聞?)書籍編集部の赤岩なほみがまとめたものである。

p.6: 米国滞在中ジュゼッペ・オッキャリーニに教えられたことは、

  1) 相手がどんなに偉い人であっても、必要なときには言うべきことを言うこと

  また、

  2) 実験が予定通りに進行しなかったときの対策をいつも考えておくことなど.

読了後、この本のテーマはこの2点であり、それを敷衍したものが本書であると、と分かった。

1)に関係する衝撃のエピソード

 p.16-17: 小柴グループのカミオカンデの論文完成後、その要約が世界に広まり、それは競合グループの米国Irvine-Michigan-Brookhaven:IMB)グループに伝わった。重要な情報は、観測された超新星爆発に伴うニュートリノは2月23日午前7時35分35秒から13秒間」に11個観測されたということ。その前に、イタリア・ソ連グループは23日2時52分36秒に観測した、と発表していた。

 p.17-18: 感度で優る米国IMBはこの後者の時刻のデータを解析してもニュートリノは観測されてんかう、困っていた。そこに、カミオカンデの時刻の情報が伝わって、その時刻のデータを解析すると、8個のニュートリノが観測された!IMBグループはすぐにニュートリノ観測を発表、さらに、あろうことか、そのグループの中の一人が小柴に長距離電話を掛けてきて、

 「自分たちはカミオカンデよりも先に、信号を見つけていた」、

というようなことを言ってきた!自分たちが最初に見つけた、という論文を書きたかったのだろう。

           小柴氏の取った行動:

 わたくしは、そいつをどなりつけた。「何を生意気なことを言っているのだ、そんなバカげたことを言うな」、と。

p.23: こういうときにどうやって喧嘩したら勝てるかは、わたくしがアメリカで覚えたことのひとつだ。」「アメリカでは、どんな偉い先生に対してでも、まちがえたことを言ったら、「先生、それはまちがっている」とはっきり指摘する。指摘しなかったら、しなかったほうがバカだと思われる。

 p.23: これからは、日本も外国と競争しなけらばならない時代なのだから、こうあるべきだと思って、帰ってきてからもこのやり方を実践していたら、慎みがない男だと、ずいぶんあちこちからにらまれたものだ。そのときに、

「小柴くんは音楽で言えば小澤征爾みたいなものだから、もう少し長い目で見てやったほうがいいよ」と言ってかばってくれたのが、朝永振一郎先生だ。

2) 「宝くじ」追求と「堅実路線」の両輪の必要性

 p.26: わたくしは実験を計画するにあたって、「これが当たったらすごいことになる」というテーマだけでなくて、「こういうことを測ればあの問題についてこんなデータがとれる」という確実なテーマも用意しておく必要があると考えている。(中略) カミオカンデの場合、「宝くじ」が陽子崩壊なら、堅実路線が「銀河系内で超新星爆発があれば、そのとき出たニュートリノを観測する可能性がある」だった。

 (逆の例)

p.52:1981年、ドイツから帰ってきた戸塚洋二がやりたかったのは、KEKのトリスタンで「ウォーターボール」という実験をやろうとしていた。KEKの連中は、トリスタンでトップクォークが見つかると信じて二つの実験をすでに内定していた。

p.53:わたし自身は、トリスタンでトップが見つかるとは思っていなかった*)。だから、トリスタンをトップクォークの発見に特化して装置にしてしまったのでは、税金で宝くじを買うようなものだ、と思っていた。国民の税金を使うのだから、後々まで残るような物理の結果を出さなければ、申し訳ない。

 ウォーターボールなら、たとえトップクォークが見つからないとしても、「ワインバーグの角度」を精度よく決めることができる。でも、

 トップクォークが見つからなくても」と書類に書いたのが、どうもKEKのご機嫌を損ねたらしく、(ウォーターボール実験の提案は)はねのけられてしまった。わたしはカンカンになったが、もう、どうにもならない。

p.53-54: 戸塚は、ウォーターボールをやるつもりで1年間一生懸命だったのだが、だめになったので、それで、カミオカンデに入ってきたのだ。

[注*)] トリスタンでトップクォークが見つかるためには、トップクォークの質量が

         60 GeV/c^2程度

 でなければならなかった。ところが、後に米国での実験を皮切りに分かったこと は、実際のトップクォークの質量は

        170 GeV/c^2ほど

と、3倍近く重かった。これでは、トリスタンではトップクォークの「尻尾も」捉えることはできなかった。

  ちなみに、トップクォーク tはu、d、s、c、bクォークに続く6番目のクォークで、このようにクォークが6種類あるかもしれない、ということは、まだ3個目のsクォーク迄しか知られていなかった1973年に小林-益川が予言していた。だから、我が国KEKとしては是非とも最初にトップを見つけたかったのだろう。実は、小林-益川理論は、クォークが6種類あれば、ある奇妙な素粒子のある稀に起こる崩壊パターンが簡単に説明できる、という理論だった。その崩壊パターンを精緻に解析し小林-益川理論の正しさを実験的に証明したのがトリスタンに続くKEKの実験Bファクトリーの実験だった。そのとき、小林誠さんはKEKの教授だった。Bファクトリーはその意味でトリスタンという「悲劇」の二重の意趣返しと言える。