伊丹十三

伊丹十三のエッセイを読むと彼の異常な多方面での天才ぶりとヒリヒリするような繊細で鋭敏な感覚に圧倒される。どのようにしてこの多チャンネルの反応性に富む一流のしかし危うい才能は生まれたのか?人生の終盤で到着した映画監督という職業は彼の天才を発揮させるのに有効な仕事であった。その邂逅は彼にとってもまた我々にとっても幸運なことであったろう。しかしそれでも彼の多才ぶりを十全に収容するには不十分であったかもしれない。彼はほとんどレオナルド・ダビンチのようである、というと言い過ぎであろうか?
 伊丹十三は1933年京都生まれで、科学の英才教育を受ける子供に選ばれた。同級には湯川や貝塚茂樹のご子息もいたそうだ。1932年生まれの荒木不二洋さん(1933年生まれ。数理物理学者。元京都大学数理解析研究所所長。)もこの英才教育を受けていた、と記憶する。伊丹十三(本名;池内岳彦)は英語は抜群の成績で先生よりもできたそうである。

   父親伊丹万作)の死後、山城高校から父親の郷里の四国の都市に移り住みそこの進学校に編入される。ちなみに、伊丹十三少年が母親および妹と住んだお寺は私が通った公立中学の直ぐ側にあった。この地域は市外を流れる石手川の向こうにあり、田んぼばかりある地域である。小学校や中学校も田んぼをつぶして作られた回りを田んぼに囲まれた学校であった。「島流しにあった。」、というのは実感に近いのではないか?
年齢は一つ下ながら同じ高校の2年生として、落第した伊丹と同級になった大江健三郎は、その地方都市よりももっと田舎の内子から来たのであった。それぞれ正反対の理由で地方都市の高校の中で疎外感を抱いていた。

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