物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

「独法化」の中で要請されるパフォーマンス的「おもしろい研究」とM.ウェーバーの描く「職業としての学問」の姿

京大経済学研究科教授の依田高展さんによると、最近大学上層部からやたらと「面白い」を押しつける風潮があるらしい。依田さんによれば、これは

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「面白い」をはき違えており無理・無駄なことだ。真の面白さは不断・普段のつまらない日常の中で曇天から太陽が垣間見えるようなもの。日常のつまらなさをじっと噛みしめることが大切であり、表面的に面白そうに見えるパフォーマンスからは大した物は生まれてこない。突き詰めて言えば、好きなことを追求する学生教職員の邪魔立てをしないことが真の面白さを生むのであり、お祭り的な面白さをもてはやす企画は大学では早晩行き詰まる。

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以上は依田高展さんのtwitterからの引用である。

 これを読んですぐに頭に浮かぶのがM.ウェーバーの「職業としての学問」である。これについて以前抜き書きしたものがあるので、紹介しよう。

==以下、「職業としての学問」(M.ウェーバー岩波文庫)からの引用 ==

素人を専門家から区別するものは、ただ素人がこれと決まった作業方法を 欠き、したがって与えられた思いつきについてその効果を判定し、評価し、 かつこれを実現する能力をもたないということだけである。

学問に生きるものは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、 自分はここに後のちまで残るような仕事を達成したという、(中略)、 深い喜びを感じることができる。

あまり類のない、第三者にはおよそ馬鹿げて見える三昧境、こうした情熱 --- これのない人は学問には向いていない。

情熱はいわゆる「霊感」を生み出す地盤であり、そして「霊感」は 学者にとって決定的なものである。

一般に思いつきというものは、人が精出して仕事をしているときに限って あらわれる。

作業と情熱とが --- そしてとくに両者が合体することによって --- 思いつきをさそいだすのである。

こうした「霊感」があたえられるかいなかは、いわば運しだいの事項であ る。

学問の領域で「個性」を持つのは、その個性ではなくて、その仕事に 仕えるひとのみである。

--- 自己を滅して専心すべき仕事を、逆に何か自分の名を売るための手段のように考え、 自分がどんな人間かを「体験」でしめしてやろうと思っているような人、 つまり、

どうだ俺はただの「専門家」じゃないだろうとか、

どうだ俺の言ったようなことはまだ誰も言わないだろうとか、

そういうことばかり考えている人、こうした人々は、学問の世界では 間違いなく「個性」のある人ではない。

自己を滅しておのれの課題に専心する人こそ、かえってその仕事の価値の 増大とともにその名を高める結果となるであろう。

いたずらに待ち焦がれているだけでは何事も成されない ---、 そしてこうした態度を改めて、自分の仕事に就き、そして「日々の要求」 に --- 人間関係の上でも職業の上でも --- 従おう。

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