昔、たぶん1980年代、テレビの企画で開高健が文壇の先輩で釣り仲間でもある井伏鱒二を自宅に訪問する番組が流されていた。そこで開高健意を決したように作家としては致命的とも思える悩みを打ち明け井伏に救いを求めだした。その会話は以下のような内容であったと記憶する:
開高:私、この頃書けないんです。夜も寝れないぐらい。本当に悩深いんです。どうしたらいいでしょう。ご教示下さい。
井伏(軽く):いや、毎日書けばいいんじゃないですか?
開高:いえ、書けないんで。。。
井伏:いや、書けば良いんです。毎日机に向かって。
この井伏鱒二のアドバイスは深くて鋭いと思う。普創作活動全般に通じるの普遍的な本質をついていると思う。実際、学問研究に関して井伏と同様の見解をマックス・ヴェーバーが「職業としての学問」に書いている。
以下、「職業としての学問」(M.ウェーバー;岩波文庫)からの引用してみよう。
素人を専門家から区別するものは、ただ素人がこれと決まった作業方法を 欠き、したがって与えられた思いつきについてその効果を判定し、評価し、 かつこれを実現する能力をもたないということだけである。
学問に生きるものは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、 自分はここに後のちまで残るような仕事を達成したという、(中略)、 深い喜びを感じることができる。
あまり類のない、第三者にはおよそ馬鹿げて見える三昧境、こうした情熱 --- これのない人は学問には向いていない。
情熱はいわゆる「霊感」を生み出す地盤であり、そして「霊感」は 学者にとって決定的なものである。
一般に思いつきというものは、人が精出して仕事をしているときに限って あらわれる。
作業と情熱とが --- そしてとくに両者が合体することによって --- 思いつきをさそいだすのである。
こうした「霊感」があたえられるかいなかは、いわば運しだいの事項であ る。
学問の領域で「個性」を持つのは、その個性ではなくて、その仕事に 仕えるひとのみである。
--- 自己を滅して専心すべき仕事を、逆に何か自分の名を売るための手段のように考え、 自分がどんな人間かを「体験」でしめしてやろうと思っているような人、 つまり、
どうだ俺はただの「専門家」じゃないだろうとか、
どうだ俺の言ったようなことはまだ誰も言わないだろうとか、
そういうことばかり考えている人、こうした人々は、学問の世界では 間違いなく「個性」のある人ではない。
自己を滅しておのれの課題に専心する人こそ、かえってその仕事の価値の 増大とともにその名を高める結果となるであろう。
いたずらに待ち焦がれているだけでは何事も成されない ---、 そしてこうした態度を改めて、自分の仕事に就き、そして「日々の要求」 に --- 人間関係の上でも職業の上でも --- 従おう。