「独法化」の中で要請されるパフォーマンス的「おもしろい研究」とM.ウェーバーの描く「職業としての学問」の姿

京大経済学研究科教授の依田高展さんによると、最近大学上層部からやたらと「面白い」を押しつける風潮があるらしい。依田さんによれば、これは

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「面白い」をはき違えており無理・無駄なことだ。真の面白さは不断・普段のつまらない日常の中で曇天から太陽が垣間見えるようなもの。日常のつまらなさをじっと噛みしめることが大切であり、表面的に面白そうに見えるパフォーマンスからは大した物は生まれてこない。突き詰めて言えば、好きなことを追求する学生教職員の邪魔立てをしないことが真の面白さを生むのであり、お祭り的な面白さをもてはやす企画は大学では早晩行き詰まる。

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以上は依田高展さんのtwitterからの引用である。

 これを読んですぐに頭に浮かぶのがM.ウェーバーの「職業としての学問」である。これについて以前抜き書きしたものがあるので、紹介しよう。

%%%%%2002年5月3日に私が書いたブログ記事 %%%%%

研究者は基本的にみないい研究をしたいと思っている。 もちろん、しばらく論文が書けていない場合は焦って、意義など どうでもよくて、何でもいいから 速く仕上げて掲載決定に持ち込めるようなテーマを だれか教えてくれないかとまことに哀れな心境に なる場合もあるあるかもしれないが、 そのような心境に至った場合は、もう一度初心にもどって 自分は何のために研究者をめざしたのかを自問すべきである。 すると、通常はやはりいい研究、人からすばらしいと言われる 研究をしたいのだということを思い出すはずである。 さて、それではいい研究とはどういう研究であろうか? また、いい研究をする、あるいは、いい研究テーマを見つけるこつは 何かあるのであろうか? もしあるなら、そういうテーマの研究をして「どうだすごいだろう、 自分はこんなにみなさんとは違うのだよ。」と言いたい人もいるだろう。 このような問題を考えるとき、M. ウエーバーの「職業としての学問」 に書かれている内容は頭を冷やす上で有効であるように思う。 下記の引用は私が以前(1986年8月3日)、 「職業としての学問」(岩波文庫)から 日記に書き抜いたものである。

===以下、「職業としての学問」(M.ウェーバー岩波文庫)からの引用 ====

 
素人を専門家から区別するものは、ただ素人がこれと決まった作業方法を 欠き、したがって与えられた思いつきについてその効果を判定し、評価し、 かつこれを実現する能力をもたないということだけである。

学問に生きるものは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、 自分はここに後のちまで残るような仕事を達成したという、(中略)、 深い喜びを感じることができる。

あまり類のない、第三者にはおよそ馬鹿げて見える三昧境、こうした情熱 --- これのない人は学問には向いていない。

情熱はいわゆる「霊感」を生み出す地盤であり、そして「霊感」は 学者にとって決定的なものである。

一般に思いつきというものは、人が精出して仕事をしているときに限って あらわれる。

作業と情熱とが --- そしてとくに両者が合体することによって --- 思いつきをさそいだすのである。

こうした「霊感」があたえられるかいなかは、いわば運しだいの事項であ る。

学問の領域で「個性」を持つのは、その個性ではなくて、その仕事に 仕えるひとのみである。

--- 自己を滅して専心すべき仕事を、逆に何か自分の名を売るための手段のように考え、 自分がどんな人間かを「体験」でしめしてやろうと思っているような人、 つまり、

どうだ俺はただの「専門家」じゃないだろうとか、

どうだ俺の言ったようなことはまだ誰も言わないだろうとか、

そういうことばかり考えている人、こうした人々は、学問の世界では 間違いなく「個性」のある人ではない。

自己を滅しておのれの課題に専心する人こそ、かえってその仕事の価値の 増大とともにその名を高める結果となるであろう。

いたずらに待ち焦がれているだけでは何事も成されない ---、 そしてこうした態度を改めて、自分の仕事に就き、そして「日々の要求」 に --- 人間関係の上でも職業の上でも --- 従おう。

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2003年「大学改革」されてしまう前の私の意見

以下の文章は、2003年、国立大学が「法人化」される前に書いた私の見解である。「大学改革」の具体的内容ではなく、その主体となるべき学問研究のプロ集団たるべき大学人の力量と見識についての感慨になっている。ここで披瀝したobservationの内容と悲観的な展望は現在、残念ながら、強化されることはあれ改善するようには見えていない。むしろ、そうならないように大学人や研究者の分断が巧妙にかつ決定的に行われていったのが「独法化」以降のこの15年間であったともいえる。

%%%%%%2003年の私の意見%%%%%%%

最近、大学改革あるいは研究所の改革の問題が重大な局面に達してきている。 しかも、事態が不必要に混乱し、社会のなかでの学問研究の役割を 本来的に発展させるのとは逆方向に進んでいるように見える。 もちろん、根本的な原因は、 大学や学問の「公共財」としての性格や、 創造的な学問/研究が如何に生まれ発展していくかを理解していない人たち の策動による。 しかし、このような事態に到った原因には、 私は、大学人や関連する研究者集団が問題に対して情緒的に対応するのみで、 具体的な問題分析にもとづいた適切かつ毅然とした態度表明を してこなかったこともあると思う。 (独法化にまだそれほど危機感を持っていない人は、文科省の提出した 法案を読んでみて欲しい。) それは端的に我々研究者コミュニティの ある種の主体的「能力」の低下によるといえる: こういった研究をめぐる「社会的問題」に対して、 「感受性」をもたず、当然の「発熱」を含む免疫反応を示すことができなかった。 それは、日常的な教室や研究所の運営の中に現れる「細かな問題」にも 反映しているはずである。 また、指導的立場にいる人たち(学長その他、「長」の肩書きを持つひとたち)が、 問題の所在を明確に 「定式化し」、コミュニティの中での議論を組織する、あるいは、 注意を喚起する、というようなことを あまりしてこなかったようにも思う。さらに、ここ10年ほど、 若い人たちの 「感受性」を育てる努力もしてこなかった。
そもそも、大学や研究所の存在は社会の中で自律的にこれらの組織を運営して いく研究者の主体的力量が前提とされている。

私が院生のとき、教室運営、学会運営、素粒子論グループ、核理懇の問題、 学術会議、そのなかの原子核研究連絡会議(核研連)、物研連等について 研究室での議論に院生、ポスドクも参加していた。 また、夏の学校を含む若手活動(若手だけの研究会の組織、 若手をめぐる問題についての議論の準備その組織、段取り)への積極的な参加 を強く促された。
それまで、学生であり、スタッフに対しては「先生」 という意識しかなかったし、生来modestな私はこのような扱いのされ方に、 最初は居心地の悪さを感じた。 しかし、そこで強調されたのは、「よい研究」をしていくには、 研究をすることと同様に、上記のような研究をめぐる諸条件に係わる 「社会的」諸問題、その解決のために依拠すべき諸組織についてもちゃんとした見識を 持ち、発言、行動していくことが「研究者のプロ」として成長するためには不可欠であるということであった。これは、その後ふりかえると、たいへんよい教育であったと 思う。この強烈な「エリート教育」が「物理の京大」を支えてきた秘密かも しれない。
しかし、最近の院生や若い研究者を見ているとこのような教育が以前ほど徹底して いないようなので気になる。
政府やマスコミの流す通俗的な意見を研究者が無批判に受け入れていないだろうか? 声が大きかったり、権力者が発言するとそれが正しいことであると 思い込みがちになるのは弱い人間、誰しも仕方のないことかも しれない。しかし、 大学の研究者の使命は、まず、すべてにわたって批判的であれということであると 思うのだが。因に、カントの哲学三部作はすべて「批判」である。 そして、我々はもっと大学人として我々が依拠してきた文化、価値観 に自信をもたなければならないと思う。「大学改革」を議論するにしても それが前提である。
たぶん、上記の「社会的な問題」について議論をするような機会がさいきん希薄に なって、このような問題について「鍛えられ」ていないため、マスコミの流す、 無責任な当事者意識のない通俗的な意見に振り回されることにお互い なってしまっているのではないか?(私は院生時代に、 このマスコミの無責任さのため ひどい「やけど」をした経験がある。)
(教科書には書かれていないが貴重な)私の院生時代に受けたもう一つの 教えは、研究は、「わいわいがやがやしながらやるものだ。」ということで ある。そして、この「わいわいがやがや」は研究だけでなく、それを取り巻く環境 についてもあてはまっていたのである。お互い、「わいわいがやがや」やりたい ものである。

40年ほど前のある教授の新入院生向け講演

私の先生(故人)が40年ほど前に物理の新入院生向けに講演を行った。部屋の整理をしていたらそのとき取ったメモが出てきた。読んでみると、今でも学生だけでなく現役の研究者にも役立つと思われるとてもいい内容だ。このまま埋もれさせておくのはもったいないので以下に(言葉を補なって)再録する。なお、この講演会は物理院会の主催したものだった。また、講演者はこのとき44才。

   <物理の新入院生向けにT教授の行った講演>

一般的な話をする。

    大学院と学部の差は何か?

たとえば、バナールは学部と大学院の質的な差を指摘し、「今までのことはすべて忘れよ。」と言っている。

  しかし、忘れることはできない。学部では問題は与えられていてそれを解く。一方、大学院では自分で問題を作る。そこに独創性がある。

現在、競争が激しく、流行がある。それは科学研究のフロントである。したがって、流行を無視することはまちがっている。がしかし、それのみに追随していくのは自分の独創性が出せないことになる。たとえば、流行の終わった後、それをやる、ということも意味がある。科学研究には回帰現象があるから。

 修士時代をどう過ごすか?

最初の1年はなるべく広く勉強する。修士論文のテーマはスタッフが与えることが多い。(上で指摘した独創性の発揮との関連で)どう考えるか?

1) トレーニングだ。2)他人のアイデアで自分が実験する。

テーマが与えられたとして、研究者として成長するか?

i) 与えられたテーマの分析を行い、自らのテーマとする。ii) 与えられたアイデアを分析し、自らのアイデアに深化させる。

 研究室の役割

 研究室に出て生活を共にすることは重要だ。研究活動には一言では言えないバックグラウンドがある。たとえば、

・ものを見る味方(自然観)というものがある。

・研究を進めるうえでの技術を学ぶところである。

・対話が重要である。対話の中で自分の考えが深められる。(弁証法的発展:ダイアレクティック)

 院生時代の研究とその後の研究

私の経験からも、最初にやった研究が物事を考えるときのバックになっている。核になる。したがって、院生時代の研究は大切に考えないといけない。

 最初やるときは小さいかも知れないが、それを他分野とつなげるなど広げていって自分の足場とする。

 教育から研究へ

どういう風に教育から研究に移っていくか、という問題には正解はないだろう。広く勉強する、という考え方もあるし、早く専門家する、という考え方もある。言えることは、どちらにしろ極端に走ることはよくない、ということだろう。テーマに則して自分の幅を広げていかないといけない。専門研究は一生懸命やらないといけないことは言うまでもないが、心構えとしては関心を広く持つこと。「generalistになれ。」あまり「共鳴」の幅を狭くするとよくない。視野を広く。そのことを研究自体も社会も求めている。

 共同利用研と研究者の自治、研究室の重要性

物理分野では全国的グループが存在し、また、さまざまの共同利用研がある。たとえば、物性研、プラズマ研、基礎物理学研究所、高エネルギー研、核物理研究センター、宇宙線研等。共同利用研を利用することによって研究者の自治を早くから経験することができる。研究室は縦と横の結節点である。研究室を大切にすることが必要である。

                                                                          [以上]

風花

「俳句歳時記第四版増補冬」(角川学芸出版編;角川ソフィア文庫)によると、

 風花とは、冬晴れの日に、青空から舞い降りる雪片のこと。

リハビリで行っている自転車こぎの途中ふと顔を上げると、青空を背景に広い窓の向こう一面に雪が舞っている。「風花だ!」

 最近御見かけしないYさんのことが頭に浮かぶ。Yさんはいくつも「風花」を配した名句を作られていた。その句を読んで私は「風花」ということばを知ったのだ。消息を看護師さんに訊くと、入院されているとのこと。

少し感慨にふけった後、こんな下手な句が浮かんだ。

      風花や虚空に浮かぶゆかし貌

      風花や虚空の向こうに病みしきみ

 

伊丹十三

伊丹十三のエッセイを読むと彼の異常な多方面での天才ぶりとヒリヒリするような繊細で鋭敏な感覚に圧倒される。どのようにしてこの多チャンネルの反応性に富む一流のしかし危うい才能は生まれたのか?人生の終盤で到着した映画監督という職業は彼の天才を発揮させるのに有効な仕事であった。その邂逅は彼にとってもまた我々にとっても幸運なことであったろう。しかしそれでも彼の多才ぶりを十全に収容するには不十分であったかもしれない。彼はほとんどレオナルド・ダビンチのようである、というと言い過ぎであろうか?
 伊丹十三は1933年京都生まれで、科学の英才教育を受ける子供に選ばれた。同級には湯川や貝塚茂樹のご子息もいたそうだ。1932年生まれの荒木不二洋さん(1933年生まれ。数理物理学者。元京都大学数理解析研究所所長。)もこの英才教育を受けていた、と記憶する。伊丹十三(本名;池内岳彦)は英語は抜群の成績で先生よりもできたそうである。

   父親伊丹万作)の死後、山城高校から父親の郷里の四国の都市に移り住みそこの進学校に編入される。ちなみに、伊丹十三少年が母親および妹と住んだお寺は私が通った公立中学の直ぐ側にあった。この地域は市外を流れる石手川の向こうにあり、田んぼばかりある地域である。小学校や中学校も田んぼをつぶして作られた回りを田んぼに囲まれた学校であった。「島流しにあった。」、というのは実感に近いのではないか?
年齢は一つ下ながら同じ高校の2年生として、落第した伊丹と同級になった大江健三郎は、その地方都市よりももっと田舎の内子から来たのであった。それぞれ正反対の理由で地方都市の高校の中で疎外感を抱いていた。

「漢字とは何か」、岡田英弘

最近,東京外国語大学名誉教授で東洋史学者の岡田英弘氏が亡くなった(2017年5月)。彼の本は何冊か読んでいる。最初に講談社現代新書の「中国文明の歴史」をざっと読んで感銘を受けたので、同じ話題、特に中国人にとっての漢字/漢文の役割について敷衍した解説を読みたくて、市立図書館から岡田英弘著作集IV「シナ(チャイナ)とは何か」を借りてきて読んだ。

 その第IV部「漢字とは何か」はとてもおもしろかった。1986年、私が中国を訪問して西安の碑林を案内されたときの記憶とよく合致している。碑林には古代からの中国の石碑が収納されている。読もうと思えば何とか意味がつかめそうだが、念のために案内してくれた中国人院生に何と書いてあるのか尋ねた。ところが、驚いたことにその若い中国人は読むこともできない、ましてや意味など全然分からないと言った。そしてそのことを当然とし、恥ともなんとも思っていないようだった。その反応が不思議でたまらなかった。そのときの不思議な気持ちがずうっと残っていたが、この本を読んでそれが当然である、ということがクリアに理解できた。

 我々の習う漢文、つまりシナ人の古典はどの民族の話ことばとも関係のなに人口言語、主に、商売をするために作られた書くためだけの言語体系である。太平洋の島々では商業のためにフランス語や英語の文法をほとんど無視した言語、ピジンが使われているが、中国といわれる土地の人々は陸続きながら様々な言語をしゃべる民族の集合体なので、生きていくため、商いをするための最低限の言語を作った。それが漢文である。

 漢文は事実や現実に存在するものを記述することはできるが、抽象的な概念や情緒などを表現することが難しい。漢文を使いこなすには、範型となる意味不明の記号と音の羅列にしか過ぎない古典を頭にたたきこんでおかないといけない。現代では、その範型の役割を毛沢東選集がになっている。この漢文をあやつって表現できることは、古典に書いてある紋切型のことや表現、現代では毛沢東がいいそうな勇ましい社会主義的な言辞にならざるを得ない。しかもそれができるのは、漢文を読むという訓練のできた一部の知識人だけだ。ほとんどの人民大衆は文字やそれによって表現される様々の概念から疎外されている。そこでは、生きていくこと、金儲けをすること、つまり実利だけを理解する人々が圧倒的な多数を占める社会が存在することになる。

 しかし、彼らもひとたび情緒の自由な表現を持つ英語や日本語を話すことになると、人間性あふれる人々に相転移するのである。

白州正子「いまなぜ青山二郎なのか」、小林秀雄のこと

何年か前、NHK白州次郎の人生をドラマでみせていた。そこで、白洲正子の先生として青山二郎なる人物が出てくる。ドラマでは市川亀二郎が演じていた。初めて聞く名前の人だが、エキセントリックで気障で破滅的でとても魅力的な人物に描かれていた。お気に入りの本屋をうろうろしていたら、白州正子コーナーがあり、それに並んで青山二郎コーナーもあった。ここの本揃えは心憎いばかりだ。いろいろ考えて、白州正子の「いまなぜ青山二郎なのか」と「青山二郎全文集 上」を買った。

 まだ全部は読めていないが、関係した人物として戦後の文化人の名前が続々と出てくる。特に、小林秀雄河上徹太郎大岡昇平。そしてその関連で中原中也坂口安吾。女性では、竹原はん、宇野千代、そして聞いたこともなかった坂本睦子。彼ら男達の野獣のような自由な「行動力」に驚いてしまう。その「行動」の対象に坂本睦子と言う人がいたらしい。 

 小林秀雄青山二郎に、お前の書いたものは上手に奇を衒って書いているので読ませるが、肝心のテーマが、対象がすっぽりと抜け落ちているではないか!だめだなあ!、とか批判されて、言葉も返せず何度も泣いていたそうだ。

 その小林はしばらくは文学評論から遠ざかっていた。(晩年に本居宣長の大長編評論を書いています。が、以下のエピソードは戦後すぐの話。)それを辰野隆東大教授に指摘されて、はい、もうあんな狭苦しい世界からはおさらばです。いままで精神がどうかしていました、というようなことを言っている。確かに、「モーツアルト」や「ゴッホ」、「セザンヌ」などという評論を書いています。しかし、これらが青山二郎によれば失敗作なのでしょう。小林秀雄はその座談が一番いいらしい。

 私も十数年前に少しは教養を身につけようと、小林秀雄を何冊か買ってみたことがある。そのときの感想は、何だこれは、凡庸な、ということだった。「モーツアルト」など途中で楽譜があったりするので、(楽譜が読めない人には)何か高級そうにみえたのかもしれないが、私には参考文献からの引き写し以外、素人の無内容な感想としか読めなかった。これには正直驚いた。

 高校のときの国語の教科書に小林の「無常ということ」(「無常といふこと」だったかもしれないが、確かめていない)が載っていて最高級の日本語のエッセイということで読まされた。しかし、何回読み直しても霧の中を歩いているようで何を言いたいのか皆目分からず、自分は国語はできない人なのだ、いう敗北感だけを持った覚えがある。しかし、それから何十年、自分でも明快に理解できる文章がちゃんとあることを知り、自分自身も論文や仕事上のドキュメントでいろいろな文章を書くという経験を経た今小林の文章を読むと、これはいけない、むしろ、にせものだ、という感想しか浮かばない。

 私の正直な感想はこんなものがありがたがる日本の文化の二流性だったが、実際はそれほどひどくない、ということを上記の白洲正子の本によって知った。身近の人たちは小林の「にせもの性」を見抜いていたようなのだから。しかし、奇を衒った小林の文章を高級なものとしてありがたがる多くの「指導的知識人」がいたのだ。だから、高校の教科書にも出ていたのだったろう。

 最後の畢生の大作「本居宣長」にしても、小林秀雄賞を受賞した橋本治に、小林秀雄は根本のところで本居宣長を読み誤っている、本質が全然つかめてない、と「小林秀雄の恵み」で批判されているのは、皮肉なことだ。