伏見関数と密度行列のQ表示についての覚書

    量子統計力学における基本的概念はvon Neumanによって導入された密度行列ρ(q,q’)である。von Neuman自身は混合状態だけでなく純粋状態にも適用される概念として導入している。密度行列は配位空間に足を持つ行列である。密度行列をWigner-Weyl変換して作ったものW(P,Q)をWigner関数と呼ぶ。これは位相空間上で定義されており、古典統計力学における分布関数との対応が見やすい。しかし、Wigner関数は正定値性を満たさず正規の分布関数としての資格を持たないので、擬分布関数と呼ばれる。Weyl変換は表示の変更であり、量子力学の内容としては等価である。したがって、量子力学の不確定性関係により座標と運動量が同時に確定した値を持つ状態は存在しないのだからWigner関数が正定値性を持たないのは当然のことであると理解される。 

   1940年、伏見康治は「密度行列のくつかの形式的性質:Some Formal Properties of the Density Matrix」という論文を書いた。これは当時30歳の著者の学位論文となった。この論文では、有限温度の量子系を扱う数学的手段として密度行列が取り上げられ、その数学的な性質や古典極限が議論された。その中で現在「伏見関数」と呼ばれる統計物理学上の重要概念が初めて導入された。すなわち、量子-古典対応を議論するなかで、(A)位置座標Qと運動量Pを持つ最小波束を導入し、量子力学の許す範囲での正準座標と運動量の不確定性の範囲で密度行列ρ (q,q’)を平均化(疎視化)し、位相空間での分布H(P, Q)を導入している。伏見はこれを「古典分布関数」と呼びρcl(PQ)と書いているが、これがまさしく現在「伏見関数(Husimi function)」と呼ばれるものの最初の出現であった。伏見がこれを「古典分布関数」と呼んだ理由は、Planck定数ℎをゼロに取る極限でこの分布関数がMaxwell-Boltzmannの古典分布関数に一致し得るからであった。

 (A)の最小波束による平均化は現代の用語ではコヒーレント状態表示を取ることと等価であり、コヒーレント状態の概念の一般化により伏見関数の一般化が可能となる。また、伏見の行った粗視化の作業は純粋状態にも適用でき、それはWigner関数を疎視化することに対応する。さらにそれはWigner関数が特異的になる位相空間の領域、すなわち、次の不確定性関係  

                 ΔQΔP=h/4π

で与えられる位相空間の範囲について疎視化しているため、伏見関数は(半)正定値性を獲得している。

   伏見関数がWigner関数の最小波束で「平均化」してものであることを明示的に示しているのは、たとえば、Takahashi and N. Saito, Phys. Rev. Lett. 55, (1985), 645;Prugovecki, Ann. Phys. (N. Y.) 110, (1978), 102.; Weissman and J. Jortner, J. Chem. Phys. 77 (1982), 1486.

    コヒーレント状態を顕に用いた密度関数のQ表示の最初の提案は量子光学の文脈で加野泰によって行われた(Yutaka. Kano, J. Math. Phys. 6, (1965), 1913)。加野はここでコヒーレント状態を用いたQ関数の顕な表式Q=<α|ρ|α>/πを与えている。しかし、Q表示と伏見関数との関係は言及されていない。現在ではこの表式も「伏見のQ表示」と呼ぶことがあるが、歴史的には正しくない。「加野のQ表示」あるいは「伏見-加野のQ表示」と呼ぶのがより適切ではないだろうか。

 伏見関数とこの量子光学で使われるQ表示が明示的に同一のものとする認識はTakahashi, J. Phys. Soc. Jpn., 55 (1986), 762.

一般の半単純リー群のコヒーレント状態(A. Perelomov)へ伏見関数の概念を拡張したのは、Karol Zyczkowski, Phys. Rev. A 35 (1987), 3546、である。それを用いて、杉田歩は伏見関数の2次のモーメントの顕な表式を与えた:A.Sugita, J. Phys. A: Math. Gen. 36 (2003), 9081.

 伏見関数が非負のために半古典的な分布関数としての意味を獲得し、エントロピー的な量を定義し議論することができる。それはWehrlによって導入されたのでWehrlエントロピーと呼ばれている(A. Wehrl,, Rev. Mod. Phys. 50 (1978), 221)。Wehrl自身は「古典エントロピー」と呼んでいる。

 伏見関数は量子-古典対応が問題となる課題において有用な手段として使われている。たとえば、量子系における(古典力学でよく定義された概念である)カオス性の記述に有用である。たとえば、「量子リャプーノフ指数」なるものも定義されている:M. Toda and K. Ikeda, Phys. Lett. A 124(1987),165. 上記、杉田のモーメントの計算も量子カオスを定義する試みのなかで行われた。 

  この論文を書いたとき伏見は1932年にできたばかりの大阪帝国大学物理学教室の30歳の若い助教授であった。この論文をもとに学位を取得し1940年に教授に昇任した。このときの当物理学教室の主任教授は八木・宇田アンテナで有名な八木秀次である。また、1949年に「中間子論」でノーベル物理学賞を取る湯川秀樹は少し年長の同僚だった。伏見は湯川がその共同研究者の坂田昌一(後に、武谷三男小林稔も加わる)と中間子論を作り発展させていくのを間近に見ていた。伏見自身は形式上、(海外留学中の)友近晋教授(流体力学)の研究室所属であったが、原子核実験物理学の菊池正士の指揮下で青木(熊谷)寛夫とともに原子核物理学の研究を盛んに行いながら理論研究も行っていた。また、伏見論文の出た1940年には後に一般ゲージ理論を創始した内山龍雄が大阪大学を卒業し副手に就任した。できたばかりの大阪帝国大学物理教室は綺羅星のような研究者が互いに競い合い世界をリードする成果を世に問うていたかのようである。

                                                                                            2017年5月29日記

中学時代のブラスバンドクラブと恩師の思いで

2017年4月30日の「題名のない音楽会」はブラスバンドが特集されていた。そこでホルストの「吹奏楽のための組曲2番」が演奏された。(因みに、私は「1番」の方が好きでときどきクラリネットのパートをリコーダーでときどき演奏する。)そこではユーフォニアム(昔は、ユウーフォニウムと呼んでいたが最近は違うらしい)のソロがある。柔らかい中音そして透き通るような高音。本当に心安らぐ。私の弟も中学時代やっていたが、あの和らかい音を聴くと弟を指導してくれた同級生のS君を思い出す。階段の踊り場で「音が抜けているか聴いてくれ」、とよく言われてよく付き合った。最初は抜けていなかったけど、そのうちどんどん音がよくなって、最後には音がベルの20-30センチぐらい上から聞こえるようになっていた。そして音もとても大きい音が出るようになった。S君はその後トロンボーンに転向して一流プロとして活躍している。

5月7日の「題名のない音楽会」はまた中学時代のブラスバンドの記憶を呼び覚ますものだった。今回の主題はスイングジャズやラテン音楽のリズム。中学時代、クラブの指導をしてくれていた篠原彰先生がまさにこのスイングジャズのようなビッグバンドジャズやラテンが好きで、楽器を始めて数年しか経っていない我々中学生にジャズやラテン音楽も演奏させてくれた。「題名のない音楽会」でもやっていた「マンボNo5」や「エルマンボ」もやった記憶がある。途中で「ウッ!、アッ!」と叫ぶのが楽しくてしょうがなかった。ブラスではあまり使わないボンゴも持ってきていた。休憩時間にボンゴのたたき方とスイングジャズやラテンのリズムの特徴を教えてくれた。ビギンはシンコペーションに特徴があるとか、ルンバのリズムでのボンゴのたたき方(それは腕がもつれそうでチャレンジだった、できたときは強い達成感があった)、また、タンゴは4拍目の後拍にアクセントがあるなど、今でもそのときの新鮮な感動を覚えている。
 そのような環境でいろんな音楽を楽しんだので、たとえば、学校帰りにY君(その後ジャズのトロンボーン吹きになった)とスイングとデキシーのどっちが好きか、などと話しながら帰るようになった。そのときは気が付かなかったけど、ジャズやラテンの他にクラシックや行進曲もいっぱいやっていたので、先生に指導を受けた生徒はとても音楽の広い世界とその楽しさが自然と身についていったのではないかと思う。だからなのだろう、部員でその後音楽の世界に入っていった人が多いように思う。このような指導をしてくれた篠原先生は音楽教師として素晴らしい先生だったなあ、とつくづく思う。

L. ド・ブロイの貢献そして朝永「量子力学」が名著であること

量子力学の形成過程を最近勉強しなおしている。

量子力学(Quantum Mechanics)形成には二つの流れがある。一つは、ボーアの対応原理を発展させたハイゼンベルグ,  M.ボルン-P.ヨルダン, ボルン-ヨルダン-ハイゼンベルグの行列力学の流れ。これはボルンによりQuantum Mechanicsと呼ばれた。

 もう一つの流れは、光が波動性だけではなく粒子性を合わせ持つ、というアインシュタインの1905年以来の研究に発し、ボース統計そしてアインシュタインのボース統計に従う理想気体の研究、そして、ド・ブロイの飛躍、すなわち、電子を含む物質にも波動性を措定し、粒子性との統一を志向する研究である。ド・ブロイは、そこでは(特殊)相対論とともに古典力学のハミルトン-ヤコビの理論や変分原理(モーペルテュイの原理;実はヤコビの原理と呼ぶべき)と光学のフェルマーの原理の類似性に依拠して、光に対するアインシュタインの公式、E=hν、p=h/λをすべての物質に対して成立する普遍的な関係式に格上げした。そして、ボーアの量子条件を電子に付随する波動の位相の一致の条件として導出するとともに、電子の個体による散乱における回折現象を予言した。この物質の波動の従う理論、波動力学の基礎方程式をハミルトン-ヤコビ方程式を基礎に書き下し、得られる偏微分方程式の解に適切な境界条件を付けてその固有値問題の解として水素原子のエネルギーレベルと波動関数を導出して見せたのがシュレーディンガーであった。ちなみに、シュレーディンガーが最初に書き下したのは、いわゆる時間に依存しないシュレーディンガー方程式であり、時間を含む場合の正しい方程式が書き下されたのは第IV論文であった。と言っても、同じ1926年ではあるが。ド・ブロイは1929年にノーベル賞を受賞した。ド・ブロイが理論物理学の研究を再開したのは1922年であった。

ハイゼンベルグ、ボルン、ヨルダンの行列力学ディラックをも巻き込み、量子的物理量の非可換性が浮き彫りにされ、ド・ブロイ、シュレーディンガー波動力学は理論の線型性が明示的である。(高林武彦著「量子論の発展史」(ちくま学芸文庫 2010年)参照。)

 両理論の同等性は1926年にシュレーディンガーにより(第II、第III論文の間に)証明された。そして、行列力学と/Quantum Mechanicsと波動力学ディラックとヨルダンの変換理論として統一され量子力学の一応の数学体系が完成した。(ハイゼンベルグとボルンそしてディラックノーベル賞を受賞しているが、ヨルダンは受賞していない。これは、ヨルダンが熱心なナチ党員であったからであると言われている。)

 さて、ド・ブロイの想定した物質粒子に付随する物質場(ド・ブロイ場と呼ぼう)は、光における電磁場に対応するとみなすのが自然である。すると、光の量子力学的な記述には電磁場の量子化が必要であったように、物質の真の量子的記述のためにド・ブロイ場の量子化を行うというプログラムが考えられる。

 そして、そのプログラムを懇切丁寧に説明してくれているのが、朝永振一郎著「量子力学 II」(みすず書房)である。高林武彦の「量子論の発展史」を再読しているうちに、40年以上前に読んだ朝永IIを思い出した。そこでもういちど覗いてみてあまりに完璧に解説されているので驚いてこの記事を書いた。

「カルテット」を垣間見ての感想

TBSテレビドラマ「カルテット」の最終回。最後の方で音楽に挫折した聴衆からの手紙が読み上げられる。君たちの演奏はひどい、揃ってない、ボーイングが一致していない、、、要するに音楽ではない、煙突から出る煙りのような何の意味もない排出物である。それなのに、煙突の煙(を出す者)でしかない君たちはなぜそのような無意味で無価値な演奏を続けるのか?、というような内容だった。これは深い問いかけだ、と思った。我々は演奏家ではないけれど、我々の生そのものが煙突の煙ではないのか?なのになぜ生き続けるのか?よりよい生を求めて日々あくせくしているのか?

ドラマでは「煙突の煙(を出すもの)」でしかない「ドーナッツの穴」の面々からの直接の返答はなかった。しかし、彼らカルテットの名前「ドーナッツの穴」そのものが「煙突の煙」のようなもので、この名前の採用の段階ですでに「手紙」の批判への回答、いや、覚悟のようなものが表現されていたのかもしれない。

WKB

量子力学の半古典論(準古典論)として使われるWKB法は\hbarの展開でシュレーディンガー方程式の解を近似していく理論である。2階の微分方程式を1階の方程式に帰着させるので特異摂動論になる。そのため\hbarの展開は素朴には漸近級数展開になっていて収束しない。また、何らかの工夫をしないと得られる波動関数は転回点で発散する。また、転回点での接続公式の導出は初学者にはあまり馴染みのないエアリ関数の(これまたあまり馴染みのない)漸近展開を用いるので難解である。

伝統的なWKB法のよい参考文献は、

M.V. Berry and K.E. Mount, Rep. Prog. Phys. 35, (1972), 315.

Bender and Orszag.

K. Konishi and G. Paffuti.

基本的貢献はR.E.. Langer (1937).

ところが、1980年代以降、VorosやPhamそして河合-竹井などによって、

上記の漸近級数のボレル和を取ることが可能であることが示され、「WKB近似」は「WKB解析」に格上げされた。この漸近級数のボレル和(あるいは何らかの総和法の適用)はよく知られた手続きである。驚くべきことはこれが1980年代までWKBの漸近級数に適用されてなかったこと。摂動展開あるところ漸近級数が存在するので、シュレーディンガー方程式以外にもこの手法は適用され多くの成果を生みつつあるようだ。たとえば、パンルベ。

広告を非表示にする

エドマンド・バーク

エドマンド・バークを長い長い逡巡の末、最近読んでみた。ただし、「新訳 フランス革命省察―「保守主義の父」かく語りき」(佐藤健志PHP 2011年)による。逡巡していたのは、少数の例外を除いて、これまで読んだほとんどの著書でこのバークを「とんでもサン」のように扱っていたから。例外はたとえば西部邁(すすむ)がいる。

しかし、革命や民主主義について最近いろいろと思うところあり、その流れでフランス革命に興味がいきついた。確かに、ルイ16世やマリー・アントワネットギロチンにかけたのは残酷でひどいじゃないか、また、学校で習ったときは抵抗を覚えつつも素通りした、ロベスピエールジャコバン恐怖政治、そしてロベスピエール自体もギロチンにかけられたフランス革命の成り行きは、あらためてとても肯定できるものではない、と思うようになった。現在なら国際人権裁判所matterか?

なんでこんなことになったのか、何が起こっていたのだろう、他の道はなかったのか?と考えて、2冊読んだ。(たった2冊か!)1冊はバーク、もう1冊は、遅塚忠躬著「フランス革命―歴史における劇薬 (岩波ジュニア新書)」(岩波 1997年).

バークの本は「とんでも本」ではなかった。それどころか、落ち着いた説得力のある意を尽くした著書であった。バークは実はイギリスのベテラン政治家で、国家の責任ある運営の意義と方法を熟知した人間であった。その観点から、具体的にフランスで行われている「改革」を危なっかしい、バランスを欠いた、したがって無責任なものであり、失敗が約束されているものとして批判している。この書はバスティーユ襲撃から1年ほどの時期、ルイ16世夫妻のギロチン処刑以前に書かれている。それにも関わらず、ことの成り行きを正確に予見し、軍事独裁に至らざるを得ないだろう、という展望も述べている。実際、フランス革命ナポレオン軍事独裁に至って一応の収束をみた。

感想:どこかで読んで気になっていたが、結局、J.J.ルソーの思想が問題だったのではないだろうか?昔、ルソーの自伝をちょっと読んだことがあるが、とてもいやなやつだった。自分勝手、好色、自頭はよくて「ああ言えばこう言う」タイプの頑固で決して負けない人間。こういう人が構成した理想の社会のあり方というのはどこかオカシイところがあっても不思議ではない。

戦後民主主義の社会では、ルソーは社会の理想を最初に明らかにした独創的で偉大な思想家として扱われてきた。私もそう思っていた。実際、桑原武男に指導された戦後人文研の共同研究は「ルソー研究」から始まったのではなかったか?(「百科全書学派」、あるいは「フランス革命」研究が最初だったかもしれない。)実は、桑原武男を若いころ敬愛していて、彼の著作はかなり読んだ。数年前、彼の家を自転車で確認しにいった。彼も時代の制約を受けた学者であった、ということか。

山下誠子句集「富士に添ふ」感想

俳人協会会員、「橡」同人の山下誠子さんから初句集「富士に添ふ」を献本していただいる。山下さんとはある偶然のきっかけで親しくお話ししていただくようになっていた。献本という思いがけない感激に、その日のうちに通読し、心に残った句を日記に書き留めた。句集というものを通読したのは初めてのことであった。全体として山下誠子という一人の人間とその人生が立ち上がってくるという予想外のことに戸惑いを覚えるほどであった。そしてそこに俳句を超えた芸術としての文学が成立しているのではないかと思った。句集というものが全体として文学作品になり得るのだということを悟った。桑原武夫の用語を使えば、「第二芸術」ではなくりっぱな「第一芸術」である。

 以下印象に残った句とそれに対して私が行った感情移入を紹介する。素人の独りよがりな読み込みであることをあらかじめお断りしておく。(以下で、太字は山下誠子作の俳句、その下の文は私の感想である。)

・風花や虚空をつかむロダンの手

 晴れたそらからちらちらと落ちてくる捉えどころのない雪片。それを力強くつかもうとするロダン作の彫刻の手は、力強い意志と決意を表しているかのよう。それを見る作者も何かしら意に決してことがあるのかもしれない。

 

・伊予うらら密柑のいろの市電きて

 伊予は私の生まれ故郷である。伊予は気候が温暖で住んでいる人間ものんびりしている。それは「うらら」のことばのニュアンスによくマッチしているようだ。みかんが大好きで郷土愛の強い伊予の人間は電車もみかん色に塗っている。そこには「坊ちゃん」の絵も描かれていたかもしれない。そんな様子をみて取った作者が微笑ましく電車を見ている。

 

・あを空に雪舞ふふしぎ訃報受く

 青空に舞う雪のふしぎと訃報という非日常が応じている。ちらちらと落ちてきた雪片が亡くなった方の切れ切れのメッセージだったのかもしれない。

 

・なるようになりゆく術後冬隣

 病気を得て、手術をして、いろいろと考えると不安だけど、なるようにしかならないと思い直し、平常心を保つ。だけど、心の底では厳しい冬に備える警戒心もぬぐえない。同じく病気もちで毎年検査入院をしている私にはとても共感できる句である。

 

・この秋は薔薇の香深し床上げす

病気で寝たままだった。やっと床上げするところまで回復した。人生のこと生きる意味、いろいろ考えた。生きていることのありがたさを深く感じる。すると、まわりのものがすべて美しくいとおしく見える、感じる。ましてや、華麗な薔薇。その香にもこれまで以上に深く豊かに感じられる。  

 

・風花や背を正さねば影も病み

 晴れた空から舞い降りる雪。少し肌寒い。晴れているので我が身の影ができている。縮こまっていかにも病人のそれだ。これではいけない。これは私ではない、背を正し、心を強くしよう。

 

・富士見むと母に逢はむと露の旅

 故郷の富士、それは心のふるさととしての母と一体のものだ。その母に異変があるようだ。心配だ。富士の見える場所へ、そして母のもとへと露に濡れながらも急ぐ旅路。

 

・病みて冴ゆ 短詩のごとき母の言

・富士に添ふ 冬星しづか母ならむ

お亡くなりになったお母さんの思いでそして鎮魂句。故郷の富士に添う星となって今もいる母、私を見守ってくれているはずの母、そして私も夜空を見上げればいつでも母に逢える。句集全体のタイトルもここから取られている。

 

・歩まねば消ゆる峰道ほととぎす

 草に覆われた山道。歩いた後に草に覆われていた道が見える。ここは人の通ることの稀な山道だ。そこにほととぎすの鳴き声。自然の真っただ中を修験者のように山道を登る私。

私の深読み:    ほととぎすは別名子規、口が赤いので血を吐きながら鳴くという連想で、結核で血を吐く正岡子規が自分の俳号にした。ほととぎすのように血を吐くことはないが、病気もちの私。しかし、精進したい道がある。究めるまであきらめきれない道がある。その道は日々の歩みをやめればその分後退してしまう厳しい峰道だ。そのことを心に聞かせて、生きる糧の道を日々歩んでいこう。