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L. ド・ブロイの貢献そして朝永「量子力学」が名著であること

量子力学の形成過程を最近勉強しなおしている。

量子力学(Quantum Mechanics)形成には二つの流れがある。一つは、ボーアの対応原理を発展させたハイゼンベルグ,  M.ボルン-P.ヨルダン, ボルン-ヨルダン-ハイゼンベルグの行列力学の流れ。これはボルンによりQuantum Mechanicsと呼ばれた。

 もう一つの流れは、光が波動性だけではなく粒子性を合わせ持つ、というアインシュタインの1905年以来の研究に発し、ボース統計そしてアインシュタインのボース統計に従う理想気体の研究、そして、ド・ブロイの飛躍、すなわち、電子を含む物質にも波動性を措定し、粒子性との統一を志向する研究である。ド・ブロイは、そこでは(特殊)相対論とともに古典力学のハミルトン-ヤコビの理論や変分原理(モーペルテュイの原理;実はヤコビの原理と呼ぶべき)と光学のフェルマーの原理の類似性に依拠して、光に対するアインシュタインの公式、E=hν、p=h/λをすべての物質に対して成立する普遍的な関係式に格上げした。そして、ボーアの量子条件を電子に付随する波動の位相の一致の条件として導出するとともに、電子の個体による散乱における回折現象を予言した。この物質の波動の従う理論、波動力学の基礎方程式をハミルトン-ヤコビ方程式を基礎に書き下し、得られる偏微分方程式の解に適切な境界条件を付けてその固有値問題の解として水素原子のエネルギーレベルと波動関数を導出して見せたのがシュレーディンガーであった。ちなみに、シュレーディンガーが最初に書き下したのは、いわゆる時間に依存しないシュレーディンガー方程式であり、時間を含む場合の正しい方程式が書き下されたのは第IV論文であった。と言っても、同じ1926年ではあるが。ド・ブロイは1929年にノーベル賞を受賞した。ド・ブロイが理論物理学の研究を再開したのは1922年であった。

ハイゼンベルグ、ボルン、ヨルダンの行列力学ディラックをも巻き込み、量子的物理量の非可換性が浮き彫りにされ、ド・ブロイ、シュレーディンガー波動力学は理論の線型性が明示的である。(高林武彦著「量子論の発展史」(ちくま学芸文庫 2010年)参照。)

 両理論の同等性は1926年にシュレーディンガーにより(第II、第III論文の間に)証明された。そして、行列力学と/Quantum Mechanicsと波動力学ディラックとヨルダンの変換理論として統一され量子力学の一応の数学体系が完成した。(ハイゼンベルグとボルンそしてディラックノーベル賞を受賞しているが、ヨルダンは受賞していない。これは、ヨルダンが熱心なナチ党員であったからであると言われている。)

 さて、ド・ブロイの想定した物質粒子に付随する物質場(ド・ブロイ場と呼ぼう)は、光における電磁場に対応するとみなすのが自然である。すると、光の量子力学的な記述には電磁場の量子化が必要であったように、物質の真の量子的記述のためにド・ブロイ場の量子化を行うというプログラムが考えられる。

 そして、そのプログラムを懇切丁寧に説明してくれているのが、朝永振一郎著「量子力学 II」(みすず書房)である。高林武彦の「量子論の発展史」を再読しているうちに、40年以上前に読んだ朝永IIを思い出した。そこでもういちど覗いてみてあまりに完璧に解説されているので驚いてこの記事を書いた。

「カルテット」を垣間見ての感想

TBSテレビドラマ「カルテット」の最終回。最後の方で音楽に挫折した聴衆からの手紙が読み上げられる。君たちの演奏はひどい、揃ってない、ボーイングが一致していない、、、要するに音楽ではない、煙突から出る煙りのような何の意味もない排出物である。それなのに、煙突の煙(を出す者)でしかない君たちはなぜそのような無意味で無価値な演奏を続けるのか?、というような内容だった。これは深い問いかけだ、と思った。我々は演奏家ではないけれど、我々の生そのものが煙突の煙ではないのか?なのになぜ生き続けるのか?よりよい生を求めて日々あくせくしているのか?

ドラマでは「煙突の煙(を出すもの)」でしかない「ドーナッツの穴」の面々からの直接の返答はなかった。しかし、彼らカルテットの名前「ドーナッツの穴」そのものが「煙突の煙」のようなもので、この名前の採用の段階ですでに「手紙」の批判への回答、いや、覚悟のようなものが表現されていたのかもしれない。

WKB

量子力学の半古典論(準古典論)として使われるWKB法は\hbarの展開でシュレーディンガー方程式の解を近似していく理論である。2階の微分方程式を1階の方程式に帰着させるので特異摂動論になる。そのため\hbarの展開は素朴には漸近級数展開になっていて収束しない。また、何らかの工夫をしないと得られる波動関数は転回点で発散する。また、転回点での接続公式の導出は初学者にはあまり馴染みのないエアリ関数の(これまたあまり馴染みのない)漸近展開を用いるので難解である。

伝統的なWKB法のよい参考文献は、

M.V. Berry and K.E. Mount, Rep. Prog. Phys. 35, (1972), 315.

Bender and Orszag.

K. Konishi and G. Paffuti.

基本的貢献はR.E.. Langer (1937).

ところが、1980年代以降、VorosやPhamそして河合-竹井などによって、

上記の漸近級数のボレル和を取ることが可能であることが示され、「WKB近似」は「WKB解析」に格上げされた。この漸近級数のボレル和(あるいは何らかの総和法の適用)はよく知られた手続きである。驚くべきことはこれが1980年代までWKBの漸近級数に適用されてなかったこと。摂動展開あるところ漸近級数が存在するので、シュレーディンガー方程式以外にもこの手法は適用され多くの成果を生みつつあるようだ。たとえば、パンルベ。

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エドマンド・バーク

エドマンド・バークを長い長い逡巡の末、最近読んでみた。ただし、「新訳 フランス革命省察―「保守主義の父」かく語りき」(佐藤健志PHP 2011年)による。逡巡していたのは、少数の例外を除いて、これまで読んだほとんどの著書でこのバークを「とんでもサン」のように扱っていたから。例外はたとえば西部邁(すすむ)がいる。

しかし、革命や民主主義について最近いろいろと思うところあり、その流れでフランス革命に興味がいきついた。確かに、ルイ16世やマリー・アントワネットギロチンにかけたのは残酷でひどいじゃないか、また、学校で習ったときは抵抗を覚えつつも素通りした、ロベスピエールジャコバン恐怖政治、そしてロベスピエール自体もギロチンにかけられたフランス革命の成り行きは、あらためてとても肯定できるものではない、と思うようになった。現在なら国際人権裁判所matterか?

なんでこんなことになったのか、何が起こっていたのだろう、他の道はなかったのか?と考えて、2冊読んだ。(たった2冊か!)1冊はバーク、もう1冊は、遅塚忠躬著「フランス革命―歴史における劇薬 (岩波ジュニア新書)」(岩波 1997年).

バークの本は「とんでも本」ではなかった。それどころか、落ち着いた説得力のある意を尽くした著書であった。バークは実はイギリスのベテラン政治家で、国家の責任ある運営の意義と方法を熟知した人間であった。その観点から、具体的にフランスで行われている「改革」を危なっかしい、バランスを欠いた、したがって無責任なものであり、失敗が約束されているものとして批判している。この書はバスティーユ襲撃から1年ほどの時期、ルイ16世夫妻のギロチン処刑以前に書かれている。それにも関わらず、ことの成り行きを正確に予見し、軍事独裁に至らざるを得ないだろう、という展望も述べている。実際、フランス革命ナポレオン軍事独裁に至って一応の収束をみた。

感想:どこかで読んで気になっていたが、結局、J.J.ルソーの思想が問題だったのではないだろうか?昔、ルソーの自伝をちょっと読んだことがあるが、とてもいやなやつだった。自分勝手、好色、自頭はよくて「ああ言えばこう言う」タイプの頑固で決して負けない人間。こういう人が構成した理想の社会のあり方というのはどこかオカシイところがあっても不思議ではない。

戦後民主主義の社会では、ルソーは社会の理想を最初に明らかにした独創的で偉大な思想家として扱われてきた。私もそう思っていた。実際、桑原武男に指導された戦後人文研の共同研究は「ルソー研究」から始まったのではなかったか?(「百科全書学派」、あるいは「フランス革命」研究が最初だったかもしれない。)実は、桑原武男を若いころ敬愛していて、彼の著作はかなり読んだ。数年前、彼の家を自転車で確認しにいった。彼も時代の制約を受けた学者であった、ということか。

山下誠子句集「富士に添ふ」感想

俳人協会会員、「橡」同人の山下誠子さんから初句集「富士に添ふ」を献本していただいる。山下さんとはある偶然のきっかけで親しくお話ししていただくようになっていた。献本という思いがけない感激に、その日のうちに通読し、心に残った句を日記に書き留めた。句集というものを通読したのは初めてのことであった。全体として山下誠子という一人の人間とその人生が立ち上がってくるという予想外のことに戸惑いを覚えるほどであった。そしてそこに俳句を超えた芸術としての文学が成立しているのではないかと思った。句集というものが全体として文学作品になり得るのだということを悟った。桑原武夫の用語を使えば、「第二芸術」ではなくりっぱな「第一芸術」である。

 以下印象に残った句とそれに対して私が行った感情移入を紹介する。素人の独りよがりな読み込みであることをあらかじめお断りしておく。(以下で、太字は山下誠子作の俳句、その下の文は私の感想である。)

・風花や虚空をつかむロダンの手

 晴れたそらからちらちらと落ちてくる捉えどころのない雪片。それを力強くつかもうとするロダン作の彫刻の手は、力強い意志と決意を表しているかのよう。それを見る作者も何かしら意に決してことがあるのかもしれない。

 

・伊予うらら密柑のいろの市電きて

 伊予は私の生まれ故郷である。伊予は気候が温暖で住んでいる人間ものんびりしている。それは「うらら」のことばのニュアンスによくマッチしているようだ。みかんが大好きで郷土愛の強い伊予の人間は電車もみかん色に塗っている。そこには「坊ちゃん」の絵も描かれていたかもしれない。そんな様子をみて取った作者が微笑ましく電車を見ている。

 

・あを空に雪舞ふふしぎ訃報受く

 青空に舞う雪のふしぎと訃報という非日常が応じている。ちらちらと落ちてきた雪片が亡くなった方の切れ切れのメッセージだったのかもしれない。

 

・なるようになりゆく術後冬隣

 病気を得て、手術をして、いろいろと考えると不安だけど、なるようにしかならないと思い直し、平常心を保つ。だけど、心の底では厳しい冬に備える警戒心もぬぐえない。同じく病気もちで毎年検査入院をしている私にはとても共感できる句である。

 

・この秋は薔薇の香深し床上げす

病気で寝たままだった。やっと床上げするところまで回復した。人生のこと生きる意味、いろいろ考えた。生きていることのありがたさを深く感じる。すると、まわりのものがすべて美しくいとおしく見える、感じる。ましてや、華麗な薔薇。その香にもこれまで以上に深く豊かに感じられる。  

 

・風花や背を正さねば影も病み

 晴れた空から舞い降りる雪。少し肌寒い。晴れているので我が身の影ができている。縮こまっていかにも病人のそれだ。これではいけない。これは私ではない、背を正し、心を強くしよう。

 

・富士見むと母に逢はむと露の旅

 故郷の富士、それは心のふるさととしての母と一体のものだ。その母に異変があるようだ。心配だ。富士の見える場所へ、そして母のもとへと露に濡れながらも急ぐ旅路。

 

・病みて冴ゆ 短詩のごとき母の言

・富士に添ふ 冬星しづか母ならむ

お亡くなりになったお母さんの思いでそして鎮魂句。故郷の富士に添う星となって今もいる母、私を見守ってくれているはずの母、そして私も夜空を見上げればいつでも母に逢える。句集全体のタイトルもここから取られている。

 

・歩まねば消ゆる峰道ほととぎす

 草に覆われた山道。歩いた後に草に覆われていた道が見える。ここは人の通ることの稀な山道だ。そこにほととぎすの鳴き声。自然の真っただ中を修験者のように山道を登る私。

私の深読み:    ほととぎすは別名子規、口が赤いので血を吐きながら鳴くという連想で、結核で血を吐く正岡子規が自分の俳号にした。ほととぎすのように血を吐くことはないが、病気もちの私。しかし、精進したい道がある。究めるまであきらめきれない道がある。その道は日々の歩みをやめればその分後退してしまう厳しい峰道だ。そのことを心に聞かせて、生きる糧の道を日々歩んでいこう。

ブログを始める:宗達

読んだ本や考えたことについて、公開を前提としてブログを書くことにした。Hatena日記は一部の人にのみ公開されているが。

古田亮著「俵屋宗達 琳派の祖の真実」(平凡社新書518, 2010年)を読んだ。著者の主張はおおざっぱに言うと、宗達琳派に入れるな、宗達は別格、その現代性は抜きんでている、その絵画史上の位置づけはマチスと比較すべきもの。

とても感慨深い論考だった。日本絵画とか琳派とかそういうちまちました枠組みを超えた絶対的な価値観の中で位置づけられる仕事をしたのが宗達だ。

 光琳を再発見した明治日本、そのとき、西洋では宗達がもっとも高く評価されていた。それが再輸入されて大正、昭和、そして現代の日本での宗達評価につながった。象徴的な展覧会は、1951年上のの国立博物館でほとんど同時開催された「宗達光琳派」展と「あんり・マチス」展。それらを観た安田靫彦の感想:

宗達展を一番に見せたいの人はマチス翁であって、その人の感想をききたいとおもうのである。

そして、狂喜して毎日見に行ったという小倉遊亀の感想:

「西洋の人たちは日本の浮世絵ぐらい見て感嘆しているでしょう。私、この大展覧会をマチスに見せてあげたくてね、マチスのとこへ電報うとうと思った。」「身にいらっしゃいって。」

二人とも宗達としか言っていない。展覧会は「宗達光琳」だったのに。