物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

俳句雑誌「橡」令和五年九月号掲載作品抜粋とその鑑賞

 

走り茶と届く旅信も走り書き  山下喜子 (p.10)

 「走り茶」、「走り書き」と明らかなことば遊び、その軽みがよい。

 

山羊の酥を伝ふ木簡緑さす   同上

 山羊の乳製品という生命に関わることを書いた木簡にこれまた新生の息吹を感じさせる新緑が共鳴・協奏している。

 

ヤマンや辛子豆腐は冷え切って 同上

 「ギヤマン」という語感の強いことばを用いて冷え切った辛子豆腐という刺激の強い食べ物を入れたガラスの器を表現している。このギヤマンは赤い色付きガラスかもしれない。切れ字は、その赤が唐辛子の赤よりも強烈だったということだろうか?

 

鉾町を牛耳る老いの夏羽織    同上

  「牛耳る」ということばには、あり得る抵抗を押さえつける意思と強さが含意されている。一方、「老い」と言い切られる御仁は傍目には明らかに年老いて引退していても不思議ではないように見える。ひょっとしたら、作者と同年代かもしれない。「鉾町」の行事全体を差配するのは「年寄りの冷や水」のようにも見える。しかし、その御仁が祇園祭用の夏羽織りを羽織ると何かが乗り移ったかのようにシャキッとする、いや、少なくとも本人は「乗り移り」を信じているかのようである。

 

青空を切りに切ったり夏燕    浅野なみ  (p.12)

  燕が飛ぶ方向を鋭角に何度も変える様子を「空を切りに切ったり」と表現したところが秀逸。縦横無人に飛ぶその若々しくすがすがしい様子が「青空」で象徴されている。

 

 木下闇疎開児童の碑を抱く   小林和子  (p.12)

  親元を遠く離れて暮らさざるを得なかった戦時の子供たちのことを書いた碑。その子供たちへの同情が「抱く」という措辞で表現されている。また、そのような非人間的な事象は闇のような暗い歴史的事実であった。

 

万葉の恋の碑に湧く草いきれ      北山秀明   (p.13)

  万葉の恋歌が草いきれの中の碑に刻まれている。その恋は熱く「むっと」するほどの生々しいものだったのだろうか?

 

薫風に目覚めし花や此処かしこ    小林和子   (p.16)

  初夏の穏やかな風が気持ちいい、その上此処かしこにきれいな花が咲いている、ああなんという晴れやかさ。それはあたかも花々が初夏の風の優しさに咲くときを一斉に悟ったかのようである。

この句はさらにサンドラ・ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」の世界を句にしているかのようにも読めるのは比較文化論的なおもしろさがある。(故芳賀徹先生などとても喜んだかもしれない。)暖かな西風(の神ゼフュロス)に吹かれて、それまで冷え切っていた大地の女神クロリスの口から花々が零れ落ち始める、そして終に春の女神プリマヴェーラに変身する。春の到来だ。

 

村田蟷螂作品抄より    (p.20-21)

銀閣の銀を奪ひて寒の月      (p.20)

  冷え冷えとした「寒の月」と「奪ふ」という即物的で厳しいことばが照応している。一方、視覚的には、地上の銀閣寺と銀色に輝く夜空の月が対比されることで立体的に景色が描かれている。名作。

 

吉野山みかどの声の雉子鳴けり  (p.20)

 「みかど」とひらがなにしたのは、四代続いた南朝天皇のだれそれを記述したものではなく、南朝という(惨めに失敗した)公家政権全体を指しているのだろう。そして、雉子はその憾みを声にして鳴いている。。。

 

臥し乍らしみじみ想ふ獺祭忌    (p.21)

 詩情をはぎ取り、苦しい病状そのままに本音をことばにした。しかし、俳人の心は忘れずに。

 

春寒し命の余燼燃やしつつ       (p.21)

夏至の日のなすすべもなく虚空みる  (p.21)

酸素吸ふ二つの鼻孔秋を待つ    (p.21)

 子規の「へちまの句」に匹敵するような絶唱。論評する言葉なし。

                                [以上]

20年前、宮崎、高千穂での虹の思い出

もう20年以上前、宮崎市で学会があった。大きくりっぱなコンベンションセンターだった。ある日自由時間ができた。秋晴れのいい天気だったので、急遽研究所の若いポスドクさん4人とでレンタカーを借りて自主エクスカーションうをすることになった。どこか決めていたわけではなく、青島に行き、鬼の洗濯板を見物し、神社の前の茶店でアイスクリームを食べたりした。午後は、誰だったか多分「教養人」の提案で、何時かかるか分からない高千穂を目指すことになった。
 郊外の道を進み上りの坂道に入って行った。さらに、山道をどんどん上って行くと、鋭く切り立った峡谷が続く。左は山の斜面、右は断崖絶壁、車が一台が通れるかどうかぐらいの細い道。少し悪い予感がしたが、不安を口にせず、走っていく。ところが、突然それまでいい天気だったのにあたりが暗くなり土砂降りの雨が降り出した。しばらくはそれでも珍しい体験にキャッ、キャッ歓声上げながら高をくくって車を走らせていく。ところが、ついに視界が1メートルもないほどの豪雨と雷になった。文字通り行くも地獄下がるも地獄、二進も三進も行かなくなってしまった。こんなところで遭難するのだろうか?それまでの歓声はどこへやら、みんな声もでない。
 そのとき、運転していたT君が

「あっ!」、

と言いながらハンドルを切った。前を見ると、何とそこは山の斜面がえぐれて広くなり車一台退避できるようになっている。そこにひとまず車を止めて豪雨と雷をやり過ごすことにした。ちょっと一息。いや、みんな、不安で息をひそめています。このひどい雨は止むのだろうか?

 ところが、案ずるより産むがやすし、4,5分も経つと嘘のように雨が止み、元のように明るい陽射しが射してきた!みんなで一斉に歓声を上げ、さあ出発。そう引き返さずそのまま高千穂を目指したのです。と、そのとき、後ろの座席のIさんが何か叫んだが、よく聞き取れない。

「ええ?」

「虹!」。

まさか、と思いながらフロントガラスの向こうを見ると、青空を背景に谷の出口の向こうに大きなこれまでに見たこともないような鮮やかな七色の虹が懸かっている。それは何か神々しささえ湛えた美しさに感じました。あれが高千穂の国の入り口だ。高千穂は我々を歓迎してくれている!
 そして、このドラマティックなことの成り行きと寿がれた結末に、

 「さすが高千穂、神の国だ!」、

などと言い合いながら喜び合う5人だった。

  高千穂を目指す谷間や秋の虹   (20年後の拙句)

 

トマス・S・クーン著「科学革命の構造: 50周年記念版 青木薫訳」のイアン・ハッキングによる「解説」を読んだ

Amazonにある宣伝文によると、この訳は、知識の進歩とは何かについての固定観念を抜本的に塗り替え、「20世紀の最も影響力の偉大な本」に数えられる名著の新版は半世紀ぶりの〈新訳〉である。また、新しい読者への案内としてI・ハッキングによる「序説━━五十周年記念版に寄せて」が巻頭に加わっている。

 私は本文は数十年前に(随分と問題があるらしい旧訳で)一応読んでいるので、とりあえず巻頭のイアン・ハッキングによる「序説」を読んでみた。この51ページもある解説は、こなれた日本語に訳されているにもかかわらず、哲学者の手になるものであり私には難解であった。まずはこんな難しい哲学的な文書をよくも訳せたものだと訳者の青木薫さんへの畏敬の念が湧いた。

1.「[パラダイム」と言う概念とウィーン学団分析哲学の影響

内容的には、私の一番の関心である「パラダイム」という用語についての解説が読みごたえがあった。驚いたのは「パラダイム」と言う用語が現代哲学者の間で使われ出したきっかけは、1930年代のウィーン学団分析哲学者として著名なルードウ”ィッヒ・ウィトゲンシュタインであったということ。たとえば、ウィトゲンシュタインの「哲学探究」(1953年)にはこの言葉が何度か出てくるらしい。そして、クーンの学友でよき議論の相手であったスタンリー・カウ”ェルはウィトゲンシュタインに心酔していた。

  「クーンはしばしば、ウィーン学団とその後継者たちの哲学を完全に打倒したとか、「ポスト実証主義」の創始者だとか言われる。しかし彼は、実証主義が前提としていたことの多くを受け継いでいた。」「クーンが晩年に行った仕事は、科学原語の論理的構文論への取り組みだったということができる。」(xlivページ)

「クーンは、ウィーン学団やその同時代の人たちが前提としたことを受け継ぎ、その思想の根本的なところを不滅化したのである。」(lページ)

2.「パラダイム概念」の定義とその曖昧化

 ハッキングによると、クーンのパラダイム概念はこの書の29頁から33ページにかけてすっきりと定義されている。しかし、その後読み進めていくとどんどんぼやけていく。

3.「真理」の相対化と「社会的構成」という理念

 「二十世紀末にアメリカの学問が懐疑主義の波に洗われていたとき、影響力のある知識人の多くが、クーンは徳としての真理を否定する自分たちの仲間だと考えた。」「彼らは、心理をカッコに入れることで、真理などという有害なものは考えるだにおぞましいと、自分たちは思っていると言っているのだ。」多くの思索者が「クーンは[真理]を否定する連中を焚きつけたと確信している。」

 クーンのこの「「構造」が科学社会学に大きな推進力を与えたのは事実で」あり、「その分野の主張の中には、真理は「社会的に構成」されるという考えを強調して、「真理」を否定する立場」のものもある。しかし、「クーンは、自分の仕事のそんな展開に嫌悪感をあらわにしている。」

 「科学知識の社会学は(中略)「構造」以降に急激に成長し、今日科学論と呼ばれる分野につながった。」「クーン以降、科学についての真に独創的な思想の多くは、もしかするとそのほとんどは、社会科学的な傾向を持つようになっている。」

 「クーンはそんな成り行きに反感を持っていた。」

%%%%%コメント1%%%%%

私もこの「反感」に賛成だ。だから、このクーンの「パラダイム論」が科学事実の客観性を否定していると敢えて「誤読」し、元物理学者のT.クーンがそのように主張している、という言説を広げるための道具として使われないか、と心配する。原著が出版されたころに比べて、人文系学者も含めて一般的な科学リテラシーが相対的に低いと感じられる事例が多くみられる昨今だからなおさらだ。

%%%%%%コメント2%%

スティーヴン・ワインバーグ「科学の発見」(文藝春秋社, 2016年)の抜き書きと感想(批判的コメントを含む) - 物理屋の不定期ブログ

にも書いたように、自然法則」という観念の成立とヨーロッパ社会の構造には密接な関係がある、ということを1934年にフランツ・ボルケナウが書いている。これはクーンの(不肖の後継者である)「科学知識の社会学」の研究者たちの先駆ではないだろうか?

%%%%上のブログ記事再掲%%%

 個々の技術や自然認識においては中国をはじめとしてヨーロッパ以外の地域でも独自の発展があった。しかし、「自然法則」として普遍的な体系に整理したのは16-17世紀のヨーロッパが初めてである。それはなぜだろうか?以下、フランツ・ボルケナウのDer Übergang vom feudalen zum bürgerlichen Weltbild.(1934年)(「封建的世界像から市民的世界像へ」水田洋他訳 みすず書房、1965年)やE. Zilselに依拠した広重徹の説明を紹介する(「物理学史 I」p.17-18).

   「自然は自立した存在であって、その現象は普遍的な、例外を許さぬ法則に従って整然と経過してゆくという観念があってはじめて、自然法則の探究を目的とする科学が成り立つ。」自然法則という観念は実は人類とともに古いわけではなく、16-17世紀のヨーロッパで成立したものであり、その成立においてデカルトの果たした役割は大きい(この点は、ワインバーグ「科学の発展」において無視されている)。

 実際、ギリシャ哲学においては「必然という観念はあっても、自然がそれに従う法(則)という考えはなかった。」中世ヨーロッパのスコラ学での基本カテゴリーは実体と属性、質料と形相であり、「法則というカテゴリーを欠いていた。」「ベーコンやギルバートそしてガリレオでさえ、明確に自覚的に``自然法則"という観念を形成していない。ガリレオは「法則性のことを``本性"とか``秩序"とかのことばで表している。しかし、デカルトになると、はっきりと自然にはある``法則"loisが確立されており、宇宙に存在し、生起する一切は厳密にこれに従う、という考えを表明し、自然についての学問は、まず自然の根本法則を見いだすことに努めなければならないと強調している。(「方法序説」第5部の初め等)」そして、ニュートンの「プリンピキア」において、「``現代人は、実体的形相や隠れた質をしりぞけて、自然現象を数学的法則に従わせることに努力した""と述べ」られるに至った。

 それではこの自然法則という観念の起源はどこにあるのであろうか?その起源としては二つ考えられる。「一つは、立法者としての(一神教の:TK)神が自然に課した法的規則という宗教的観念である。」「トマス・アキナスがこの考えを大成して、人間も自然も同じ(一神教の:TK)神の定めた法に従うと主張した。」自然が人間からはなれて自立していく過程の解明は近代思想史形成の重要テーマである。

 「もう一つの根は、職人たちがその技術的な仕事の中で求めた、仕事をうまくなしとげるための量的な規則である。」ガリレオはそのことに注意を払っていた。「しかし、問題は、この技術的規則という観念が、神が自然に課した法という観念といかに結びついたか、ということである。」

 その結びつきが17世紀ヨーロッパで起こったのは、「高度に発展した中央集権的な絶対主義国家が形成され」、「このような社会形態が、人々が自然をみるときのモデル、概念的な枠を提供することになったのである。すなわち、神は王に、自然法則は法律に、そして自然は理想的な法治国家になぞらえて理解されることになっていった、と解釈されるのである。」

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物理屋の「けんか」の作法---小柴昌俊著「物理屋になりたかったんだよ」(朝日新聞社、2002年)再読

この本は、巻末にある尾関章朝日新聞大阪本社科学医療部長(当時)のあとがき「インタビューを終えて」によると、氏が2002年8月から9月にかけて小柴昌俊宅を訪ねて延べ約10時間にわたって行ったインタビュー記録をもとに(朝日新聞?)書籍編集部の赤岩なほみがまとめたものである。

p.6: 米国滞在中ジュゼッペ・オッキャリーニに教えられたことは、

  1) 相手がどんなに偉い人であっても、必要なときには言うべきことを言うこと

  また、

  2) 実験が予定通りに進行しなかったときの対策をいつも考えておくことなど.

読了後、この本のテーマはこの2点であり、それを敷衍したものが本書であると、と分かった。

1)に関係する衝撃のエピソード

 p.16-17: 小柴グループのカミオカンデの論文完成後、その要約が世界に広まり、それは競合グループの米国Irvine-Michigan-Brookhaven:IMB)グループに伝わった。重要な情報は、観測された超新星爆発に伴うニュートリノは2月23日午前7時35分35秒から13秒間」に11個観測されたということ。その前に、イタリア・ソ連グループは23日2時52分36秒に観測した、と発表していた。

 p.17-18: 感度で優る米国IMBはこの後者の時刻のデータを解析してもニュートリノは観測されてんかう、困っていた。そこに、カミオカンデの時刻の情報が伝わって、その時刻のデータを解析すると、8個のニュートリノが観測された!IMBグループはすぐにニュートリノ観測を発表、さらに、あろうことか、そのグループの中の一人が小柴に長距離電話を掛けてきて、

 「自分たちはカミオカンデよりも先に、信号を見つけていた」、

というようなことを言ってきた!自分たちが最初に見つけた、という論文を書きたかったのだろう。

           小柴氏の取った行動:

 わたくしは、そいつをどなりつけた。「何を生意気なことを言っているのだ、そんなバカげたことを言うな」、と。

p.23: こういうときにどうやって喧嘩したら勝てるかは、わたくしがアメリカで覚えたことのひとつだ。」「アメリカでは、どんな偉い先生に対してでも、まちがえたことを言ったら、「先生、それはまちがっている」とはっきり指摘する。指摘しなかったら、しなかったほうがバカだと思われる。

 p.23: これからは、日本も外国と競争しなけらばならない時代なのだから、こうあるべきだと思って、帰ってきてからもこのやり方を実践していたら、慎みがない男だと、ずいぶんあちこちからにらまれたものだ。そのときに、

「小柴くんは音楽で言えば小澤征爾みたいなものだから、もう少し長い目で見てやったほうがいいよ」と言ってかばってくれたのが、朝永振一郎先生だ。

2) 「宝くじ」追求と「堅実路線」の両輪の必要性

 p.26: わたくしは実験を計画するにあたって、「これが当たったらすごいことになる」というテーマだけでなくて、「こういうことを測ればあの問題についてこんなデータがとれる」という確実なテーマも用意しておく必要があると考えている。(中略) カミオカンデの場合、「宝くじ」が陽子崩壊なら、堅実路線が「銀河系内で超新星爆発があれば、そのとき出たニュートリノを観測する可能性がある」だった。

 (逆の例)

p.52:1981年、ドイツから帰ってきた戸塚洋二がやりたかったのは、KEKのトリスタンで「ウォーターボール」という実験をやろうとしていた。KEKの連中は、トリスタンでトップクォークが見つかると信じて二つの実験をすでに内定していた。

p.53:わたし自身は、トリスタンでトップが見つかるとは思っていなかった*)。だから、トリスタンをトップクォークの発見に特化して装置にしてしまったのでは、税金で宝くじを買うようなものだ、と思っていた。国民の税金を使うのだから、後々まで残るような物理の結果を出さなければ、申し訳ない。

 ウォーターボールなら、たとえトップクォークが見つからないとしても、「ワインバーグの角度」を精度よく決めることができる。でも、

 トップクォークが見つからなくても」と書類に書いたのが、どうもKEKのご機嫌を損ねたらしく、(ウォーターボール実験の提案は)はねのけられてしまった。わたしはカンカンになったが、もう、どうにもならない。

p.53-54: 戸塚は、ウォーターボールをやるつもりで1年間一生懸命だったのだが、だめになったので、それで、カミオカンデに入ってきたのだ。

[注*)] トリスタンでトップクォークが見つかるためには、トップクォークの質量が

         60 GeV/c^2程度

 でなければならなかった。ところが、後に米国での実験を皮切りに分かったこと は、実際のトップクォークの質量は

        170 GeV/c^2ほど

と、3倍近く重かった。これでは、トリスタンではトップクォークの「尻尾も」捉えることはできなかった。

  ちなみに、トップクォーク tはu、d、s、c、bクォークに続く6番目のクォークで、このようにクォークが6種類あるかもしれない、ということは、まだ3個目のsクォーク迄しか知られていなかった1973年に小林-益川が予言していた。だから、我が国KEKとしては是非とも最初にトップを見つけたかったのだろう。実は、小林-益川理論は、クォークが6種類あれば、ある奇妙な素粒子のある稀に起こる崩壊パターンが簡単に説明できる、という理論だった。その崩壊パターンを精緻に解析し小林-益川理論の正しさを実験的に証明したのがトリスタンに続くKEKの実験Bファクトリーの実験だった。そのとき、小林誠さんはKEKの教授だった。Bファクトリーはその意味でトリスタンという「悲劇」の二重の意趣返しと言える。

 

大江健三郎「政治少年死す」(「セウ’’ンティーン」第二部)を読んだ!

1961年の雑誌「文学界」2月号に発表されて以来、2015年のドイツ語訳以外、一度も書籍化されることのなかった大江健三郎「政治少年死す」が大江健三郎全小説第三巻(講談社)に収録されている!ことを知り、図書館から借りてきて読んでみた。

 まず、驚くのはこの緊張感のある文章で綴られてた洞察に満ちた小説が25歳の青年によって書かれた、という事実である。もちろん、若さゆえの勢いある文章とともに、たとえば、カミュの「異邦人」の影響をあからさまに示す下りも出てくる。

 しかし、これは内部からの性的衝動に強く影響されながらも同時に実存の悩みを誠実にそして知的に苦悩する普遍的青年像を描いた世界の名作である。さらに驚くべきことは、この60年以上前に書かれた小説が21世紀の現在のアクチャルな課題を深く描いているということ、しかも現代この時期に書かれた小説だとしても最先端の優れた小説として屹立している、ということである。そのことは、巻末に付された日地谷=キルシュネライト・イルメラ氏(ベルリン自由大学教授)の評論により明快にかつ説得的に解説されている。

 確かに、大江はドストエフスキーと並んで評価されるほどの世界の大作家である、という尾崎真理子氏(早稲田大学教授)の評価を再確認したように思う。

大西明氏への弔辞       

大西さん、

大西さんとの別れがこんなにも早く、しかも私が見送る立場になるなどとは想像もしていませんでした。年明けから会うたびに痩せ、顔色を悪くされていく大西さんを見てこれはただ事ではないと心の奥では覚悟はしていましたが、、人生無常と言うほかありません。

 大西さんのことを始めて知ったのは、大西さんが大学院に入られる前年9月、院入試が終わった直後でした。当時の松柳研一助教授から「今度凄いのが入ってくる。大学院入試成績の点数が京大物理の大学院入試史上ダントツで一番だ!」と聞きました。それが大西さんでした。

 年月が経ち、大西さんが基研の教授になられてからの2008年初めて共同研究をすることになりました。それは大西さんが客員教授として招いたドイツのレーゲンスブルク大教授のアンドレアス・シェファーさんとそのとき同じく長期滞在されたバーント・ミューラーDuke大教授との共同研究でした。この研究は場の理論において伏見関数を初めて本格的に利用したものになりました。この研究で私は初めて大西さんの卓越した研究能力を間近で確かめることができました。それは、バーント・ミューラー教授が大西さんへの追悼メッセージの中で書かれている通りです。その中でミューラーさんは、大西さんが新しいアイデアを素早く把握し、その開発に貢献する深い考えの持ち主だ、また、彼は。他の多くの科学者が自分の知っていることに固執してしまうような立場になっても、新しい問題に取り組み、新しい方法で考えることを恐れない科学者だ、と高く評価しています。

 大西さんの研究スタイルの優れた特徴は、訪問された研究者の問題意識を受け止めそれを具体的に展開し、まとまった研究成果まで持っていけることです。そしてそれらは世界をリードするような研究成果になっていることは驚嘆に値します。

 たとえば、2017年に世界的な中性子星物理の権威である米国ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校J.M.ラティマー教授を招いて行った共同研究では、物性物理学、原子核物理学そして天体核物理学をつなぐ壮大な研究成果を上げています。これは発表されてまだ5年ほどですがその世界的評価の高さはその引用数が200を優に超えていることからも分かります。

 もう一つ例を挙げると、2011年客員教授として来られた韓国延世大のスーホン・リー教授らとのハドロン物理学と重イオン衝突反応を結び付ける研究があります。この共同研究グループは今や世界的に著名な研究グループとして知られ、大西さんはその中心メンバーです。大西さんたちが提起した研究課題は米国BNLやスイスのCERNなどの世界の主要な研究センターでの実験研究の柱の一つとして確立するまでに至っています。

 優れた研究者の評価基準にその人が新しい研究分野を作ったかどうかということを上げることができると思います。大西さんは新しい分野を創られたと思います。

 大西さんの研究では、他にも北海道時代からやられている比較的低エネルギーの重イオン衝突のダイナミクスのシミュレーション研究やニューラルネットワークを基礎物理学の問題に用いるという独創的な研究もあります。これらは前二者同様すべてこれからますます重要になっていくものばかりです。

 このように、大西さんの最近の研究の充実ぶりを見ると、今後5年10年は原子核・天体核物理研究において大西さんの存在はますます大きいものになっていき、まさに大西さんの時代が来るのではないかと私は予想し期待していたのでした。

 最後に、今回この追悼文を書くにあたり、この数か月の大西さんの行動を思い返してみました。3月には明らかに痩せて体力の落ちた身体を押して声を張り上げて学会の座長を務めていました。5月1日には我々研究グループのリモードでの研究討論に参加し、最後に振り絞るような低い声で今後の方針についてコメントをされました。我々は3人はその鬼気迫る姿に衝撃を受け最後は「お大事に」、と言うほかありませんでした。その後さらにたぶん亡くなられる数日前に基研での常任会議にリモートで出席され自分の現状を踏まえて基研での自分が抜けた後の体制などについて要望を伝えていたということを聞きました。彼のその誠実で強い責任感に基づく英雄的ともいえる行動には頭が下がる思いです。そしてそこに真のエリートの姿を見る様に思います。

 大西さんは、科学者としてまた人間として傑出した人物として決して忘れられることはないでしょう。また、今回改めて御家族を拝見すると、大西さんがよき夫であり父親であられたことがよく分かります。

大西さん、すばらしい人生でした。

安らかにお眠りください。

 2023年5月20日

西田太一郎著「漢文の語法」 (角川ソフィア文庫 )

#西田太一郎著「漢文の語法」 (角川ソフィア文庫 ) を買ってしまった。解説:齋藤希史、校訂:齋藤希史田口一郎東大教授。

 

 

高校時代漢文が好きだった私は1回生のときに司馬遷の「史記」を読んでいくという西田先生の漢文の講義を受講した。そして、試験も受けて「良」ではあるが、一応単位も取った(試験問題には五行ほどの白文を読め、という問題もあった)。西田先生はすでに還暦を過ぎておられたと思う。
 
講義では、西田先生の京ことばにまず強い印象を受けるとともに、途中からこの先生はそうとう学識のある人だ、ということがうすうす感じられてきた。それで、後期の試験が終わってから(!)、高校時代推薦され購入していた「角川漢和中辞典」に加えて、先生が唯一推奨できる漢和辞典として言及された小川環・西田太一郎編の「新字源」も、その先生のことばを重いものと考え購入したのだった。
 
 この「漢文の語法」は齋藤希史氏の解説によると1200以上ある文例の過半数が「史記」から取られているらしい。つまり、西田先生はそれほどまでに「史記」を深く、深く読み込まれ研究されていた、ということ。そのような深い研究に基づいた講義を1回生の我々は聴講できるという贅沢な経験ができたということである。高校の漢文しか知らない私にも先生の学識の深さは自ずと知れたというのも当然のことであった。