走り茶と届く旅信も走り書き 山下喜子 (p.10)
「走り茶」、「走り書き」と明らかなことば遊び、その軽みがよい。
山羊の酥を伝ふ木簡緑さす 同上
山羊の乳製品という生命に関わることを書いた木簡にこれまた新生の息吹を感じさせる新緑が共鳴・協奏している。
ギヤマンや辛子豆腐は冷え切って 同上
「ギヤマン」という語感の強いことばを用いて冷え切った辛子豆腐という刺激の強い食べ物を入れたガラスの器を表現している。このギヤマンは赤い色付きガラスかもしれない。切れ字は、その赤が唐辛子の赤よりも強烈だったということだろうか?
鉾町を牛耳る老いの夏羽織 同上
「牛耳る」ということばには、あり得る抵抗を押さえつける意思と強さが含意されている。一方、「老い」と言い切られる御仁は傍目には明らかに年老いて引退していても不思議ではないように見える。ひょっとしたら、作者と同年代かもしれない。「鉾町」の行事全体を差配するのは「年寄りの冷や水」のようにも見える。しかし、その御仁が祇園祭用の夏羽織りを羽織ると何かが乗り移ったかのようにシャキッとする、いや、少なくとも本人は「乗り移り」を信じているかのようである。
青空を切りに切ったり夏燕 浅野なみ (p.12)
燕が飛ぶ方向を鋭角に何度も変える様子を「空を切りに切ったり」と表現したところが秀逸。縦横無人に飛ぶその若々しくすがすがしい様子が「青空」で象徴されている。
木下闇疎開児童の碑を抱く 小林和子 (p.12)
親元を遠く離れて暮らさざるを得なかった戦時の子供たちのことを書いた碑。その子供たちへの同情が「抱く」という措辞で表現されている。また、そのような非人間的な事象は闇のような暗い歴史的事実であった。
万葉の恋の碑に湧く草いきれ 北山秀明 (p.13)
万葉の恋歌が草いきれの中の碑に刻まれている。その恋は熱く「むっと」するほどの生々しいものだったのだろうか?
薫風に目覚めし花や此処かしこ 小林和子 (p.16)
初夏の穏やかな風が気持ちいい、その上此処かしこにきれいな花が咲いている、ああなんという晴れやかさ。それはあたかも花々が初夏の風の優しさに咲くときを一斉に悟ったかのようである。
この句はさらにサンドラ・ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」の世界を句にしているかのようにも読めるのは比較文化論的なおもしろさがある。(故芳賀徹先生などとても喜んだかもしれない。)暖かな西風(の神ゼフュロス)に吹かれて、それまで冷え切っていた大地の女神クロリスの口から花々が零れ落ち始める、そして終に春の女神プリマヴェーラに変身する。春の到来だ。
村田蟷螂作品抄より (p.20-21)
銀閣の銀を奪ひて寒の月 (p.20)
冷え冷えとした「寒の月」と「奪ふ」という即物的で厳しいことばが照応している。一方、視覚的には、地上の銀閣寺と銀色に輝く夜空の月が対比されることで立体的に景色が描かれている。名作。
吉野山みかどの声の雉子鳴けり (p.20)
「みかど」とひらがなにしたのは、四代続いた南朝の天皇のだれそれを記述したものではなく、南朝という(惨めに失敗した)公家政権全体を指しているのだろう。そして、雉子はその憾みを声にして鳴いている。。。
臥し乍らしみじみ想ふ獺祭忌 (p.21)
詩情をはぎ取り、苦しい病状そのままに本音をことばにした。しかし、俳人の心は忘れずに。
春寒し命の余燼燃やしつつ (p.21)
夏至の日のなすすべもなく虚空みる (p.21)
酸素吸ふ二つの鼻孔秋を待つ (p.21)
子規の「へちまの句」に匹敵するような絶唱。論評する言葉なし。
[以上]