「漢字とは何か」、岡田英弘

最近,東京外国語大学名誉教授で東洋史学者の岡田英弘氏が亡くなった(2017年5月)。彼の本は何冊か読んでいる。最初に講談社現代新書の「中国文明の歴史」をざっと読んで感銘を受けたので、同じ話題、特に中国人にとっての漢字/漢文の役割について敷衍した解説を読みたくて、市立図書館から岡田英弘著作集IV「シナ(チャイナ)とは何か」を借りてきて読んだ。

 その第IV部「漢字とは何か」はとてもおもしろかった。1986年、私が中国を訪問して西安の碑林を案内されたときの記憶とよく合致している。碑林には古代からの中国の石碑が収納されている。読もうと思えば何とか意味がつかめそうだが、念のために案内してくれた中国人院生に何と書いてあるのか尋ねた。ところが、驚いたことにその若い中国人は読むこともできない、ましてや意味など全然分からないと言った。そしてそのことを当然とし、恥ともなんとも思っていないようだった。その反応が不思議でたまらなかった。そのときの不思議な気持ちがずうっと残っていたが、この本を読んでそれが当然である、ということがクリアに理解できた。

 我々の習う漢文、つまりシナ人の古典はどの民族の話ことばとも関係のなに人口言語、主に、商売をするために作られた書くためだけの言語体系である。太平洋の島々では商業のためにフランス語や英語の文法をほとんど無視した言語、ピジンが使われているが、中国といわれる土地の人々は陸続きながら様々な言語をしゃべる民族の集合体なので、生きていくため、商いをするための最低限の言語を作った。それが漢文である。

 漢文は事実や現実に存在するものを記述することはできるが、抽象的な概念や情緒などを表現することが難しい。漢文を使いこなすには、範型となる意味不明の記号と音の羅列にしか過ぎない古典を頭にたたきこんでおかないといけない。現代では、その範型の役割を毛沢東選集がになっている。この漢文をあやつって表現できることは、古典に書いてある紋切型のことや表現、現代では毛沢東がいいそうな勇ましい社会主義的な言辞にならざるを得ない。しかもそれができるのは、漢文を読むという訓練のできた一部の知識人だけだ。ほとんどの人民大衆は文字やそれによって表現される様々の概念から疎外されている。そこでは、生きていくこと、金儲けをすること、つまり実利だけを理解する人々が圧倒的な多数を占める社会が存在することになる。

 しかし、彼らもひとたび情緒の自由な表現を持つ英語や日本語を話すことになると、人間性あふれる人々に相転移するのである。