物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

岩波文庫版「M/Tと森のフシギの物語」を買った ---個人的悲報;物忘れの事例 ---

最近、物忘れのひどさを家内に指摘されることが多い私であるが、今日は我ながら唖然とするできごとがあった。ここにその「悲報」を報告し今後の戒めとしたい。
 大江健三郎が亡くなって関連記事を読んでいるうちに、どうやらまだ私が読もうとして読めていない「同時代ゲーム」と「M/Tと森のフシギの物語」が「万延元年のフットボール」以降では最重要な作品らしいことが確認できた。
 「ああ、両方とも文庫本で持っていたなあ、読んでみよう、いや、ちょっとペラペラでも眺めてみよう」、とあちこち何日も探したが見つからない。定年のとき研究室の図書や資料を持ち帰る時ひょっとして処分してしまったのかもしれない、「ああ何と馬鹿なことを!」と思い悔やんだ。
 しょうがなく、Amazonで両方ともカートに入れて「ポチッ」と押そうかどうか迷ったあげく、一度は手元にあった2冊とも買うのはなんとなく癪に障るので、まずは1冊ということにし、「同時代ゲーム」を短く読みやすくしたと言う「M/T」を「ポチ」った。それが今日届いた。それを机の近くの本棚に並べようと思い他の本を少し移動して整理していたそのとき!!
 机のすぐ横の奥の深い本棚の中に並んでいるその2冊!それは見まごう事なきあれほど探しに探し回った件の2冊だ。
 そうだった、尾崎真理子著「大江健三郎全小説全解説」というとんでもない題に誘われて買って読んだ2年前、この2冊は是非読まなければいけないと思いすぐ読めるように机の横に移動させていたのだった。その後、この難物を読み始める決意ができない(ちなみに、同様に傑作の「万延元年のフットボール」は1行、いや1句読んではいろんな想念が沸き起こって、私は全部を読み切るのに10年以上かかった)まますっかり忘れてしまっていたのだった、、、
 ただ小さな慰めはある。「M/T」の新版の岩波文庫版(だけでなくほとんどの短編小説)は作者が岩波文庫版に収録するとき大幅に改変しているらしいし、芥川賞作家でNHKの「日美」のMCの小野正嗣早稲田大学教授の「解説」もなかなかの名解説らしい。実際、岩波文庫版の作者のあとがき「語り方の問題(二)」において、小野の解説が特別のものであり、大江の「長編小説のほぼ全体への展望に立っている評論です。」云々、と紹介されている。またそのことは、「群像」5月号の大江健三郎追悼に寄せた文章で小野が感謝と共に遠慮深い表現で言及している。ということで、この「余計な買い物」は100%無駄にはならなかったようだ。

きさらぎの雪鎧ひけり會津墓碑 楓子(昼寝の会) 鑑賞

 會津墓地は京都黒谷金戒光明寺にあり、ここは京都守護職會津藩の本陣でした。お寺のウェブページの解説

 


によると、当時京都は

「暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた」。

そこで、京の町衆は京都守護職としての會津藩士の入京を人垣を作って大歓迎したそうです。ところが、薩長のクーデタの成功の後、會津藩は「鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられ戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置され」たままになるという悲劇を生みます。
 このような背景を知ると、雪を「鎧ふ」という措辞が秀逸と感じます。2月のまだ冷たい雪をかぶった墓碑は、時代の理不尽な波の中で命を落とした会津藩士の哀しい運命を暗示しているでしょう。しかし、「鎧ふ」という措辞は、武士として戦闘の中で死んでいった会津藩士の名誉を重んじる役割を果たしています。會津藩士への同情心のこもった格調高い句となっています。


 因みに、鳥羽伏見の路上に放置されたままの會津藩士の遺体はその後どうなったでしょうか?これについてはとても興味深いエピソードが上のウェッブページに紹介されています。以下、ウエッブページからの引用です(少し手を入れています)。會津墓地西側の西雲院庫裡前には「侠客 會津小鉄」の墓が」あります。彼は、鳥羽伏見の路上に放置されていた會津藩士の遺体を「子分二百余名を動員し、迫害も恐れず収容し近くの寺で荼毘に付し回向供養したそうです。會津藩松平容保京都守護職在職中は表の家業は口入れ屋として、裏は、新選組密偵として大活躍をした小鉄は、以後も「容保公の恩義に報いんが為に黒谷會津墓地を西雲院住職とともに死守し、清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っているとのことです。

俳句誌「橡」令和五年一月号に収められた句の中で感銘を受けた句とその解釈

 

ビルの端を染めて始まる冬一日   三浦亜紀子 p.9

 冬の早朝、日の出間もない朝日がビルの端を明るく照らしている美しい景。

忘らるる木陰に石蕗の花明り   宮口喜代子 p.11

 普段なら見過ごしてしまう薄暗い木陰に明るく黄色い石蕗の花が咲いて鮮やかだ。

廃線の径真っ直ぐに鬼やんま   原田清正    p.11

 真っ直ぐという力強さと鬼やんまの大きくふてぶてしい強さ。それらは何を表現しているのか明確に把握しきれていないのだが、何かしら深い詩情を感じる。

月の蝕見てゐる穴の小啄木鳥かな 山下誠子  p.13

 月食で欠けた黒い「穴」と小啄木鳥がそこから顔をのぞかせている巣穴。無生物と生物の違いはあれ、この世に存在するものとして共鳴しあっている。掲句の措辞「穴」は一見余分に感じるが実は画竜中の点睛であると思う。つまり、月食の欠けた暗い部分がそのまま小啄木鳥の暗い巣穴に繋がっており、そこから小啄木鳥が顔を出しているのだ。幻想的でシュールレアリスムの詩、と解釈できるかもしれない。

神立ちて月の食はるる熊襲郷    北山秀明  p.13

 月食という天体現象に熊襲がいた太古から続く悠久の時間を思っている。

屋久猿のボスの座したる古酒の樽  北山秀明  p.13

 古酒とボス猿がよく呼応している。。

寄鍋の隙間を泳ぐ海葡萄       北山秀明 p.13

 熱せられた鍋の中の海葡萄の房があたかも生き物のように鍋の中を漂っているという、何気ない光景を面白がっている。俳味のある句。

年惜しむ展望風呂に海のぞみ  山本美知子  p.18

 いろいろとあった一年だったが、年末に展望風呂でゆったりとくつろいでいる。海の広さがゆったりとした気持ちに呼応している。

一歩づつ踏絵のやうに落花ふむ    山本美知子  p.19

  地上に落ちた花を踏むことに感じるうしろめたさ、いや罪悪感を「踏み絵をふむよう」と表現した。 

赤とんぼ一寸の赤夕日追ひ     山下喜子  p.20

  赤とんぼを「一寸の赤」と表現した大胆さと独創性が素晴らしい。あたかも夕日の赤を一筋削り取った!ような赤。

リタイアの秋意にひらふ鳩の羽    山下喜子 p.21

 リタイアしたものの揺れる気持ちが季語「秋意」と「ひらふ」という措辞によく表現され、一つの詩の世界立ち上がっている

つたへ持つ西行和綴じ淑気満つ    山下喜子 p.21

 芭蕉も尊敬して止まなかった大歌人西行の和綴じ本を伝承され保持しているのだということから自覚される詩人として選ばれているかも知れないという予感と喜び。「満つる」のはその淑気だけではなくこれからも臆することなくもっと「詩」を作っていこうという身体の奥から自ずと沸き起こる気力でもあるのだ。

                         [以上]

読書メモ:山本みなみ「史伝北条義時」、沙川貴大「物理学最前線28 非平衡統計力学」、宮下精二「基幹講座物理学 統計力学」

ごく最近読んだ本で特に感銘を受けたものをメモしておく。

1. 山本みなみ著「史伝北条義時」(小学館、2021年)

    承久の乱がなぜ起こり、その結果、上皇が3人も島流しにされるというようなことが現実となったのかに興味があったので、この本の終わり3分の1ほどを読んだ。基本史料および主だった先行研究を広範に渉猟し、それらの要領のよい整理をしてくれているだけでなく、新史料を含む史料の独自の深い読み込みと論理的推論により、先学の権威に臆することなく、著者独自の見解を説得的に披瀝している。たとえば、義時の「突然の死」が毒殺ではないこと、政子、義時両人の政治的センスの良さと能力の高さ、義時の墓が頼朝の墓と並んで建てられたことの背景と意味(鎌倉に武士政権を確立した頼朝と並ぶ立役者であること)の解明.。まだ30歳台前半の若い学究であるが、すでに完成した大家の印象を受けた。まだ読み残した部分や彼女の他の著作を読むのが楽しみだ。

2.沙川貴大著「非平衡統計力学 ゆらぎの熱力学から情報熱力学まで」(物理学最前線28 共立出版、2022年)  まだ、最初の2章しか読み切っていないが、この2章に情報熱力学および非平衡統計力学の画期的な進展のエッセンスは明快に記述されていると思う。すなわち、確率分布関数で表現されているシャノンエントロピー(にk_BTを掛けたもの)を非平衡状態を含む物理系のエントロピーと同定できる、ということである。この同定の妥当性は平衡系でのエントロピーと一致すること、非平衡系ではランジュバン系やマルコフジャンプ系などの非平衡モデルで確かめられている。

 こうして、第2章最後のコラム「熱力学と統計力学の関係」に披瀝された次の見解が導き出される : 既存の統計力学の枠組みの「基礎付け」は現象論的に確率した熱力学との整合性によって与えられる、というよく言われる見方は、今や妥当なものではない。「現代の非平衡系の研究においては、熱力学と統計力学は一体のものと捉えるべきである。」(ナノスケールの分子モーターや量子ドットを用いたナノ熱電デバイスなどを除外して)「マクロだけで閉じた体系を追求する必然性も特にないだろう。」

この本は古典統計のみに限っている。量子統計を含む場合は、   Ref.[32]: T. Sagawa, https://arxiv.org/abs/2007.09974

3. 宮下精二著「基幹講座物理学 統計力学」(東京図書 2020年)  上の認識が最近の標準的な統計力学の教科書に反映されているかどうかに興味が湧いて、上記の教科書を読んでみた。ただし、「第1章 序論:統計力学の考え方」のみ。まず、要領よく、等重率の原理をミクロカノニカル集団に適用し,熱力学との比較により熱平衡状態におけるボルツマンの原理、S(E)=k_B ln (W(E)) を導出する。そして、熱力学的極限と熱力学量の示量性が強調される。

 §1.7.7 では量子統計におけるKubo-Martin-Schwinger(KMS)関係式が導出される。熱力学的極限移項に伴う発散の存在のために、逆に、KMS関係式を熱平衡状態の定義として用いるというC*代数の方法に言及されている。

  §1.8では、区別可能な状態の数え上げは識別能力に依存していることに注意し、「分解能」を上げて識別能力を高めると、区別できない状態の数は減り、最終的にはエントロピーは0になると説明されている。その「最終段階」での物理理論は「熱」が取れて「(量子)力学」になる。そこで、§1.8.1では「情報量とエントロピー」が主題となり、ここで シャノンエントロピーの解説が行われる。等重率の原理と熱平衡状態でエントロピーが最大になるという要請を置くと、シャノンエントロピーがボルツマンの原理と一致することが示される。

  §1.9は「熱平衡状態とはなにか?」と題され、量子統計におけるごく最近のtypicalityの理論、ボルツマン重み波動関数熱力学的純粋量子状態理論、そして、固有状態熱化仮説(Eigenstate Thermalization Hypothesis: ETH)の意義や限界が簡潔に記述されている。そして、これらの理論が成り立つ背景にある熱平衡状態の持つ示量性の重要性が強調されている。印象的なのは、これら最近の発展において日本人研究者(H. Tasaki, S. Sugiura, A. Shimizu, T. Mori, N. Shiraishi, (引用されていないが) A. Sugita) が重要な貢献をしていることである。

スティーヴン・ワインバーグ「科学の発見」(文藝春秋社, 2016年)の抜き書きと感想(批判的コメントを含む)

S. ワインバーグの「科学の発見」を読んだ。ここに書かれている事実関係は、広重徹「物理学史 I, II」(培風館 新物理学シリーズ5, 6; 1968年)、伊藤俊太郎「十二世紀ルネサンス(講談社学術文庫 1780; 2006年)、島尾永康「ニュートン(岩波新書黄版88)、あるいは平凡社加藤周一編集「世界百科事典」等々を通して知っていた内容である。実際、ある私立大学の文科系学生向けにこのテーマで20年近く講義をしていた。そういう私から見ると基本的な観点で違和感を持つところもいくつかある。しかし、この本には初めて知る事実が少なからずあり、また、様々の事実に対するワインバーグの評価、感想が興味深くまた教育的であった。そこで、おもしろいと思ったことを抜き書きし、ところどころに私の感想を書き、最後に批判を含むコメントを書いておく。

 

ギリシャ科学の衰退はキリスト教の興隆のせいか?(p.76)

313年、キリスト教コンスタンティヌス一世によって公認され、380年、テオドシウス一世によって国教と定められた。この時代に、ギリシャ科学の偉大な業績は終わりを迎えようとしていた。(p.77)

(しかし、)全般的に見れば、聖書の記述と科学知識との直接的な衝突がキリスト教と科学の緊張関係を生んだ重要な原因だとは思えない。(p.79)

これよりずっと重要な原因は、「異教徒の科学は、キリスト教徒が取り組むべき霊的な問題から人の心を逸らすものだ」という初期キリスト教徒に蔓延していた考え方にあったものと思われる。(p.79)

もう一つの要因は、キリスト教が教会での立身出世の機会を、知的な(つまり、違う道を選んでいれば数学者や科学者になったかもしれない)若者に提供したことだった。司教や司祭は一般的に、通常の司法による支配や納税義務を免れていた。 (中略) 司教は、アレクサンドリアのムセイオンやアテネアカデメイアの学者よりずっと大きな政治的権力を振るうことができた。(中略) 多神教世界においては、富と政治権力の持ち主が宗教上の要職を占めるのであって、宗教者が富と権力を握るわけではなかった。(p.80)

[コメント(TK)] 

 この「司教や司祭」を「病院長や開業医」に置きかえれば、そのまま現代のわが国の科学の衰退や社会全体の活力の減退を説明するかもしれない。そして、それは大学入試における医学部受験者の異常な増大とそれに裏腹な関係として数理に優れた若者の理工学部への進学の単調な減少という近年の現象と整合的である。そのような趨勢がもたらした現代日本の状況、特にテレビなどのメディアに見られる状況は、ギボンが「ローマ帝国衰亡史」の中で苦々しく記述した以下の状況に酷似しているかもしれない:

アテネの学園にとって、ゴート族の武力さえ、新しい宗教の創立ほどに致命的ではなかった。聖職者らは理性の行使を不要とし、どんな問題も宗教上の心情によって解決し、異教徒や懐疑論者に永遠の業火を宣告した。無数の面倒な論争の中で彼らは知性の脆弱と心の堕落を支持し、古代の賢人の人間性を侮辱し、教義にとって不快な、あるいは少なくとも卑屈な信者の気質にとって不快な哲学的探究精神を禁止した。」(Gibbon, `Decline and Fall', Chapter 40, p.231.) (p.81)

 

第7章 太陽、月、地球の計測

過去の偉人たちが軽視してしまった、実験結果の不確実性(p.100)

アリスタルコス の科学と現代科学との違いを際立たせているものは、彼の観測結果の数値的誤りではない。(中略) アリスタルコスと現代天文学者や物理学者との本当の違いは、彼の観測データが誤っていたことではなく、彼がデータの不確実性(誤差:TK)の評価をおこなおうとしなかったこと、あるいはそのデータが不完全かもしれないことを認めてさえいなかったことにある。(p.100-101)

 現代の物理学者や天文学者は、実験結果の不確実性を肝に銘じるよう教え込まれている。(S.ワインバーグが学部学生時代取った必修の)実験講座の授業時間の大半は、測定結果の不確実性(誤差:TK)の評価に費やされた。しかし、歴史的に見れば、この不確実性(誤差:TK)に注意が払われるようになったのはつい最近のことである。(中略) ニュートンでさえ実験の不確実性(誤差:TK)を軽視することがあった。

[コメント:TK」この実験の測定誤差や系統誤差の軽視は物理以外の学問分野、特に、医学分野では未だに見過ごされているかもしれない。実際、病院でいやというほど受ける「検査結果」に「誤差棒」や誤差の評価数値が付いているのを見たことがない。

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第十章 暗黒の西洋に差しこめ始めた光

科学再興のさきがけとなった男、ビュリダン(p.180)

ビュリダンは、科学原理の論理的必然性を認めない経験主義者だった。「原理というものはすぐに分かるものではない。(中略) 原理は、それが証明できないが故に原理と呼ばれるのだ。他の前提から推論することも形式的手順によって証明することもできないが、多くの事例において真実であることが観察され、いかなる事例においても誤りであると観察されないが故に受け入れられるものが原理と呼ばれるのだ」(p.181)

  科学の将来にとっては、これを理解することが不可欠だった。そして、それは簡単なことではなかった。純粋に演繹的な自然科学という、プラトンが目指した到達不可能な目標が、注意深い観察の注意深い分析に基づいて築き上げるしかない進歩を阻んでいた。(現代のその間違った事例として、ピアジェが「子供は生まれながらに相対論を理解している」、と言っていることを指摘している。) (p.181)

 ビュリダン(1296頃ー1358頃)は経験主義者ではあったが実験主義者ではなかった。(p.181) (ガリレオとの違い:TK)  

   (ビュリダンは投射物体の運動を理解するために「駆動力(インぺトゥス)」という概念を導入した。そして、そのアイデアを円運動にまで拡張し、惑星の運動の維持を理解しようとした。)(p.182)

 ビュリダンは科学と宗教との妥協案を模索していた。これは、「宇宙の仕組みを最初に動かし始めたのは神だが、その後は、宇宙は自然法則に支配されて動いている」という、数世紀後に流行した妥協案の先駆けだった。(p.182)

 ビュリダンのインペトゥスの概念は、数世紀にわたって影響力を持ち続けた。1500年代初めにコペルニクスパドヴァ大学で医学を学んだときにも、インペトゥスは教えられていた。ガリレオも、十六世紀後半にピサ大学でこれを習った。(p.183)

第四部 科学革命

 物理学と天文学は、十六世紀から十七世紀にかけての革命的変化を経て現在のような形を取るようになり、それ以後の全科学の発展に模範を示した。(中略) たとえば、ハーバート・バターフィールドは、科学革命の重要性は「キリスト教誕生以来のあらゆる出来事に勝っている。これと比べれば、ルネサンス宗教改革も単なるエピソード、つまり中世キリスト教世界の枠内での単なる配置転換に過ぎない」(``The Origin of Modern Science', rev. ed. (Free Press, N.Y., 1957; p.7)と断言している。(p.196)

 ここ数十年の間に、科学革命の重要性を疑問視する論調が見られるようになった。(たとえば、S. シェイピン「科学革命」(1996)。) その批判には、二つの相反するタイプがある。(一つは、16-17世紀の科学的発見は中世ヨーロッパやイスラム諸国で既に始まっていた科学的進歩の自然な延長に過ぎない。二つ目は、「科学革命」を担った人々の著作にはプラトンの影響がある、とか、占星術をやっていたとか、聖書の研究をしていた、とか。)(p.196)

 どちらの批判にももっともな部分はある。しかしそれでも、「科学革命は、精神史をそれ以前とそれ以後に二分するリアルな転換点だったのだ」と私は確信している。現代の現役科学者の観点から、私はそう判断する。二~三の古代ギリシャの輝かしい例外を除けば、十六世紀以前の科学は私にとって、自分や同僚たちがおこなっていることとはまるで違うもののように思われる。(それらの科学は宗教や「哲学」と不可分に結びついていたし、数学との関係も解決していなかった。) 十七世紀以降の物理学と天文学には、そんな違和感はない。(中略) それは数学的に表現された、客観的法則の探究である。それらの法則が、様々な現象の正確な予測を可能にする。そしてそうした予測を観測や実験結果と比較することで、法則の正当性が立証される。

 科学革命は確かに存在した。(p.197)

[コメント] このことがこの本でワインバーグが最も言いたかったことのようである。

(この後、コペルニクス、チコ・ブラーエ、ケプラー、そしてガリレオの業績の紹介が続く。それらはほとんど、たとえば、広重徹「物理学史 I」に書かれているような周知の事実である。)

 ニュートン理論の勝利 (p.317)

(前略) (ニュートン理論に) いろいろと反対意見はあったが、結局のところ、 そんなことは大した問題ではなかった。ニュートン物理学の正しさが次々と証明されていったからである。

(1) ハレーによる(ハレー)彗星軌道が放物線になり観測データと一致することの証明、(2)クレローによる摂動計算によるハレー彗星の18年後の近日点到着年日の予言とその観測結果の一致(1759年4月)、(3) ダランベールによるニュートン理論を用いた春分点歳差の正確かつ精密な計算(1749年)。

ニュートンの理論はついに世界中で勝利を収めた。(p.318)

 それは、ニュートンの理論が従来の形而上学的基準(「目的」という問題に答えを出していない、ということ:引用者注)を満たしていたためではなかった。(中略) だが、それは、それまで謎に包まれていた多種多様な現象の計算を可能にする普遍的原理を提供した。こうして、ニュートンの理論は、物理理論の規範と可能性を示す強固なモデルとなった。(p.318)

 これは、ある種のダーウィン的淘汰が科学史に働いていることを示す一例である。(中略) 何かが見事に説明されたとき、われわれは強い喜びを覚える。後世にまで残る科学理論や科学手法とは、科学研究に関する既存のモデルに適合しているか否かにかかわらず、こうした喜びを提供するものである。(p.318)

 (ニュートン理論に反対した人たちがいたことの教訓) ニュートンのような、数多くの観測結果を見事に説明する理論を考えもなしに否定してはならない、という教訓(中略) その理論がうまく機能する理由を考案者自身も正しく理解していない場合もあり得るし、科学理論はいずれ、さらにうまく機能する理論の近似理論だったと判明するものだが、それらは決して単なる誤りではない。(p.318)

 (この教訓に基づく、量子力学に反対したアインシュタインシュレーディンガー批判。p.318) 量子力学理論をこうした超一流の物理学者が否定したという事実は、1930年代から1940年代にかけて達成された個体・原子核素粒子物理学における偉大な進歩に彼らが参加できなかったことを意味している。(p.319)

 アインシュタインの(相対性)理論とニュートンの理論の違いは、ニュートンの理論とそれ以前のどの理論との違いよりもずっと小さい。(p.324)

我々はどうして現代科学を発見できたのか(p.325)

ほんのときたま、誰かが何かの現象を説明する方法を発見した。その説明が適切で、多くのことを解き明かせるときは、それは発見者に強い満足を与えた。(例:(1) エカントというアイデアを思いついたときのプトレマイオス。(2) プトレマイオスの体系に必要なファイン・チューニングと螺旋軌道が太陽中心説で解消できることに気が付いた時のコペルニクス。(3) コペルニクスの込み入ったモデルを、楕円軌道のアイデアを含む自らの三法則で置き換えることができたときのケプラー。)(p.326)

 つまり、世界はわれわれにとって、満足感を覚える瞬間という報酬を与えることで思考力の発達を促すティーチングマシンのような働きをしているのである。

[コメント: TK] ここでのワインバーグの説明は今流行の機械学習の用語を用いて、以下のように理解できるかもしれない。我々人類はあたかも「教師付き機械学習」を行うAIのように自然認識の方法を改善し、その認識の精度を改良してきたのである。もちろん、「教師」は世界/自然である。

 われわれは、目的というものを気にかけなくなった。(「気にける」のは求める喜びに到達する方法ではない。こうしてわれわれは) (1) 不確実性(誤差)を許容することを学び、(2) 設定する条件が人工的であることを気にせず実験することを学んだ。) そして、それがうまく機能したときには喜びを増してくれる、一種の美的感覚を発達させた。人類の世界の理解は蓄積していくものだ。その道のりは計画も予測も不可能だが、確かな知識へとつながっている。(p.326-327)  

 第十五章 エピローグ、大いなる統一をめざして (p.328)

( 生物学と地質学の特異性:歴史的偶然性の介入)

生物の現在のありようは物理法則に従ってそうなったのではなく、そこには無数の歴史的偶然が関わっている。(中略) こうした偶然の中には統計学的に理解できるものもあるが、一つ一つの偶然を個別に理解するわけにはいかない。(中略) 生物学の一般原則はすべて、歴史的偶然(定義上、これを説明することは不可能である)とともに基本的物理法則によって成り立っている。(p.341)

 統一された自然観への道のり (「還元主義」擁護の主張が述べられる)p.341

たとえば、熱力学はさまざまな系に適用できる。(p.341) (中略) 多数の分子を含む系だけでなく、巨大なブラックホールの表面にも適用できる。だが、何にでも適用できるわけではないし、熱力学が特定の系に適用できるかどうかを問題にするとき、さらに、適用できる場合にその理由を問題にするときには、さらに深い、さらに真に基本的な物理法則に言及せざるを得ない。この意味では、還元主義は科学的手法を改革するためのプログラムではない。それは、なぜ世界がこのようなものであるのかという一つの見解なのである。(p.342)

------------------[以上、「科学の発見」の引用とコメント終わり]-------

[引用に結びつかない個人的コメント](2022/0916)

ワインバーグの「科学の発見」には書かれていないか強調されていない事実/観点で、私が広重徹「物理学史I」やその他の科学史関係の図書から学んだことを全体の補足として書いておく。また、「科学革命」という現象に関してなお残る疑問も書く。

1) コペルニクスケプラーにおける「プラトン主義/ヘルメス思想」の影響

  星の天体上の運行の記述の精確さにおいてはプトレマイオスの「天動説(地球中心説)」と変わりのない「地動説(太陽中心説)」をなぜコペルニクスケプラーが発想し、拘ったのか?そのヒントは、たとえば、コペルニクスの「天体の回転について」に書かれているように、彼にとっては「生命と光の源である太陽」は宇宙の中心に位置することが自然であった。そのような太陽崇拝はルネサン期に流行したプラトン主義/ヘルメス思想(プロティノスフィチーノ等)に由来する。それはケプラーも同様である。ちなみに、したがって「地動説/天動説」ということばを使うよりはそれぞれ「太陽中心説」および「地球中心説」と呼ぶ方がその思想背景を正確に記述している。

2) 自然法則」という観念の成立とヨーロッパ社会

 個々の技術や自然認識においては中国をはじめとしてヨーロッパ以外の地域でも独自の発展があった。しかし、「自然法則」として普遍的な体系に整理したのは16-17世紀のヨーロッパが初めてである。それはなぜだろうか?以下、フランツ・ボルケナウのDer Übergang vom feudalen zum bürgerlichen Weltbild.(1934年)(「封建的世界像から市民的世界像へ」水田洋他訳 みすず書房、1965年)やE. Zilselに依拠した広重徹の説明を紹介する(「物理学史 I」p.17-18).

   「自然は自立した存在であって、その現象は普遍的な、例外を許さぬ法則に従って整然と経過してゆくという観念があってはじめて、自然法則の探究を目的とする科学が成り立つ。」自然法則という観念は実は人類とともに古いわけではなく、16-17世紀のヨーロッパで成立したものであり、その成立においてデカルトの果たした役割は大きい(この点は、ワインバーグ「科学の発展」において無視されている)。

 実際、ギリシャ哲学においては「必然という観念はあっても、自然がそれに従う法(則)という考えはなかった。」中世ヨーロッパのスコラ学での基本カテゴリーは実体と属性、質料と形相であり、「法則というカテゴリーを欠いていた。」「ベーコンやギルバートそしてガリレオでさえ、明確に自覚的に``自然法則"という観念を形成していない。ガリレオは「法則性のことを``本性"とか``秩序"とかのことばで表している。しかし、デカルトになると、はっきりと自然にはある``法則"loisが確立されており、宇宙に存在し、生起する一切は厳密にこれに従う、という考えを表明し、自然についての学問は、まず自然の根本法則を見いだすことに努めなければならないと強調している。(「方法序説」第5部の初め等)」そして、ニュートンの「プリンピキア」において、「``現代人は、実体的形相や隠れた質をしりぞけて、自然現象を数学的法則に従わせることに努力した""と述べ」られるに至った。

 それではこの自然法則という観念の起源はどこにあるのであろうか?その起源としては二つ考えられる。「一つは、立法者としての(一神教の:TK)神が自然に課した法的規則という宗教的観念である。」「トマス・アキナスがこの考えを大成して、人間も自然も同じ(一神教の:TK)神の定めた法に従うと主張した。」自然が人間からはなれて自立していく過程の解明は近代思想史形成の重要テーマである。

 「もう一つの根は、職人たちがその技術的な仕事の中で求めた、仕事をうまくなしとげるための量的な規則である。」ガリレオはそのことに注意を払っていた。「しかし、問題は、この技術的規則という観念が、神が自然に課した法という観念といかに結びついたか、ということである。」

 その結びつきが17世紀ヨーロッパで起こったのは、「高度に発展した中央集権的な絶対主義国家が形成され」、「このような社会形態が、人々が自然をみるときのモデル、概念的な枠を提供することになったのである。すなわち、神は王に、自然法則は法律に、そして自然は理想的な法治国家になぞらえて理解されることになっていった、と解釈されるのである。」

3) ジョルダノ・ブルーノの「無限宇宙論」とニュートン慣性の法則

 ガリレオは「運動の合成可能性」ならびに「相対性」の原理を明確に述べ、運動学の成立において決定的な役割を果たした。また、物体に力が働かないときの物体の運動は等速運動である、という言明もしている。しかし、彼の等速運動は「等速の円運動」であった。力はベクトルであり、力が働かないときの運動ばベクトルとしての速度一定の運動であり、それは大きさだけでなく方向を一定の等速直線運動である。ニュートンの運動の第一法則は「慣性の法則」であり、それは正しく「物体に力が働かないとき、物体は静止を続けるか等速直線運動を続ける。」となっている。それでは、ガリレオニュートンの間に何が起こったのか?

 それは、ジョルダノ・ブルーノの「無限宇宙」という観念の存在である。ガリレオキリスト教の教義を疑わず有限宇宙論を前提としていた。そこでは無限に続ける直線運動は「不自然」である。一方、無限宇宙論を前提とすれば、等速直線運動を想定することに心理的抵抗はなくなる。このように、ニュートンによる近代力学の成立においては空間概念の革新が前提としてあった。

 因みに、ブルーノもヘルメス思想の影響を強く受けていたことが知られている。15世紀フィレンツェで活躍したフィチーノや彼が広めたヘルメス思想の近代科学の成立への影響については、山本義隆著「磁力と重力の発見2」(みすず書房 2003年)でも詳説されている。

                                                                                                              [以上](2022/0916:10/11補訂)

  

                                   

 

 

 

   

 

 

  

モノグラフ「くりこみ群法 の幾何学的定式化---流体方程式導出への応用を含む」(Springer,2022)の内容紹介

link.springer.com

                -with applications to derivation of causal fluid dynamics'

by Teiji Kunihiro, Yuta Kikuchi and Kyosuke Tsumura (Springer, April 1, 2022)

         

                                      [前書き]を基に内容を紹介する。

 このモノグラフの大きな目的は2つである。1つは、いわゆる「くりこみ群法(RG法)」とその拡張である二重項形式(doublet sheme)を幾何学的観点から包括的に説明し、様々な例を挙げて説明することである。第2は、その応用として、RG法に基づいて開発された二重項形式の2次の(因果律を満たす)流体力学の導出である:相対論的および非相対論的なボルツマン方程式から、因果律を満たす流体力学が輸送係数および緩和時間の微視的の表式を含めて導かれている。本書の内容は、いくつかの一般的総説と著者らのオリジナルな研究を基にした部分からなる。
 RG法とは、微分方程式の大域的・漸近的解析法であり、30年ほど前に米国イリノイ大のグループなどによって開発された。本書では、この方法が初等微分幾何学の概念である包絡線の理論に基づいて純粋に数学的な枠組みで定式化し解説されている。特に、RG 法が系の漸近的なゆっくりした時間発展を記述する透明で強力な方法を自然に与えることが強調されている:不変・吸引多様体の構築とその上で定義されたゆっくりした変数に対する還約された発展方程式がRG法により初等的且つ明示的に構成できる。それは、非線形振動子に対するクリロフ・ボゴリューボフ・ミトロポリスキー理論や、蔵本の縮約理論などの基礎付けにもなっていることが注意されている。

 扱われる例としてランジュバン方程式やフォッカー-プランク方程式のような確率方程式も含まれているが、著者の一人と松木平淳太によって定式化されたRG法の離散系への適用の解説は、他の部分と直接的な関係がないこととすでに本書が長大になっていることのために割愛されている。この部分は将来公表する機会があることが期待される。

 摂動論に基づく通常の縮約理論は, 無摂動方程式の線形演算子のゼロモードを利用する。しかし、いわゆる因果律を満たす2次の流体力学の導出では、与えられた系のメゾスコピックダイナミクスを取り入れる必要がある。たとえば、ボルツマン方程式から導出する場合、流速や温度、密度などの通常の流体変数からなる不変多様体を拡張し、適切な励起モードを縮約方程式の独立変数として取り込む必要がある。このモノグラフではまず、与えられた微視的方程式から適切な励起モードを含むメゾスコピックダイナミクスを構築するための一般的な縮約理論がRG方程式の拡張として定式化されている。この方法は二重項形式(doublet scheme)と呼ばれる。

 二重項形式に基づく因果律を満たす流体力学の導出は第二部で解説されている。こうして得られた流体力学方程式はエネルギーフレーム(ランダウ-リフシッツフレーム)に一意に決まる。さらに、輸送係数や緩和時間の微視的な表式が明示的に与えられている。それらは、輸送係数のKubo公式およびそれらを自然に拡張した形になっており、物理的に自然な解釈ができる。非相対論的領域での流体力学を超えたメゾスコピックダイナミクスの導出はフェルミオンからなる冷却原子に対しても行われている。
 本書は、これらの輸送係数や緩和時間の詳細な数値解析も行っており、その精確で効率的な数値計算法も提供されている。具体的には、二重指数積分公式と直接行列反転法が用いられている。非相対論的な量子系に対する数値計算では緩和時間近似の妥当性についても批判的に検証されている。
 

 本書は、少なくともRG法一般を解説している前半部分は、できるだけ教育的であることを意図して書かれており、物理学のRG理論に馴染みのない研究者だけでなく、線形微分方程式線形代数などの入門的な数学的素養のある人なら困難なく理解できるであろう。したがって、意欲的な学部学生にも少なくとも「くりこみ群法」を紹介している前半部分は理解可能のはずである。                   [以上]

                                                                                                             

武衛、武衛陣町、御霊町

問題:以下の町名読めますか?
上京区室町通り椹木町通り上る武衛陣町」
答え:かみぎょうく むろまちどおり (ここまでは「小学生問題」)
   さわらぎちょう どおり あがる ぶえいじんちょう
読めたとして、ここはどこでしょう?京都御所(以下、「京都御苑」、と読んでください)のすぐ西、平安女学院のある場所です。烏丸通に沿っては聖アグネス教会があります。北の境界は下立売通りです。

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平安女学院の敷地内にある「武衛陣」の石碑
そう言えば、先日、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で頼朝が鎌倉武士たちに武衛と呼ばれるシーンがありました(実際に呼ばれたかどうかは怪しいようですが)。
  この武衛陣町、日本歴史上重要な場所であることを私は比較的最近(2021年3月)に知りました。 (1) 2020年度のNHK大河ドラマ麒麟がくる」で向井理演ずる足利義輝が畳で押さえつけられて刺殺されたあの御所があった場所が、実は、ここ武衛陣でした。 そのとき、焼き払われたそうです。しかし、次の義昭もこの跡により大きい屋敷を作って住んでいた。そして、信長に対して最初の挙兵をしたのもここ。(2)それよりずっと前、 室町時代応仁の乱の前、ここに管領斯波氏の邸宅がありました。斯波氏のついていた役職名が左兵衛督や左兵衛佐であり、その唐名が武衛なので、この邸宅場所が武衛の場所、武衛陣と呼ばれるようになったそうです。しかし、驚くべきは、その名前が未だに使われていること!応仁の乱のときも焼け落ちずに済んだが、その後、斯波氏は領国の尾張の方に行って使われなくなったそうです。こんな「身近に」こんな歴史上の大事件が起こった場所があったとは! 今更ながら、京都恐るべし! 
 まあしかし、この武衛陣のすぐそこには蛤御門があるわけだし、京都はそこら中日本史上の重大事件が起こった場所だらけなんですけど、あらためて具体的に知ると驚いてしまいます。ちなみに、今日の散歩には目的があって、下御霊神社の最初の場所を同定しに行ったのだけど、そこはそこで、ちゃんと「御霊町」、という名前が残っていた!京都検察庁のところです。今の下御霊神社寺町通り丸太町下がるにあります。移転した(移転させられた)のは、秀吉の京都改造、都市計画のためだったようです。京都は哀しい街で、政治闘争の舞台だから、何か大きい政治上の事件があると、ほとんど焼き払われて更地にされてしまう。特に、今の中京あたり。信長は威圧のため、上京も焼き払った。 いずれにしても、人が住んでいるのは上京と下京。中京は室町通りが一本走るだけの草地。逆に、都市開発して新しい人を入れようとすると広大な更地は好都合で、ここに洛外から商売する連中を入れることにした。すると、ポツンとある神社はじゃま、ということだったようです。そこで、新たに造られた寺町に移動させられた、、、のでしょう。