物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

E・H・カー「新版 カール・マルクス」(未来社、1998)覚書

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       E・H・カー著「カール・マルクス

が、「マルクス主義」がマルクスの若いときに構成された未熟な思考体系である、と明快に批判している、という記事を読んだ。そこで興味がわいてすぐに図書館から借りてきて読んだことがある。このような観点からのマルクス批判は新鮮だし、納得がいくような気がしたのだ。

 この本の2章がマルクス主義の内容と批判に充てられていた。以下は、その2章だけ読んだ記憶に基づく覚え書き。

==========覚書開始=============

 哲学(唯物論弁証法)、政治学、経済学からなるマルクス主義の理念はマルクスが20歳代中ごろまでに構成された。それぞれドイツ、フランス、そしてイギリスで構成された。特に、経済学はイギリスに行ってから死ぬまでその完成に苦心惨憺し、未完かつ失敗に終わった。
哲学:ヘーゲル観念論においては、正・反・合は思惟の一つの過程である。マルクスは、フォイエルバッハ唯物論(それはただ絶対存在を「物」と言い換えたものに過ぎない。「物」のそれ以上の具体的に掘り下げた分析や概念規定はない)を経て、すべての自然過程を正・反・合によると想定した。それは通常の哲学(学問)では、そこから学問的分析が始まる「予想(conjecture)」に過ぎないはずのものであるのだが。
 経済学:1) 労働価値説は当時の経済学では陳腐で常識的なアイデアであった。しかし、「資本論」の中でマルクスにより誠実に説明されたその学説は自己矛盾や循環論法に陥ったものになっており、無残にも自己破綻している。それは壮大な「マルクス経済学」のすべての基礎であるにも関わらず。しかし、そういうことはあり得ることである。キリスト教の基礎は、不合理に満ちているが、それでもそれを認めてしまえる人にとっては意味のある思想体系が成立しているのである。
しかし!2) 資本家を打倒し、、資本主義を転覆させる「憎悪の革命」を成立させるはずの「剰余利潤学説」も破綻している。これが成立するための条件が限定的過ぎる。しかし、その前提はその後の歴史経過の示す事実と矛盾している。そもそも、利益が労働者と資本家に分配される、ということはアダムスミスに書いてある。後者を意味ありげなレトリックで「剰余利潤」と言い換えたに過ぎない。そこから、不当性が示唆され、憎悪の革命が正当化される。実は、論理は逆である。「憎悪の革命」を正当化するための論理として「剰余利潤」の学説が提起されたのである。そして、その論理は、しっかりと読み込む読者には破綻していることが明らかである。しかし、「資本論」を最後まで読み通す注意深い読者はこれまでほとんどいなかったのだ。「資本論」で証明されている(らしい)、ということだけが宣伝され、ほとんどの人がそれを信じて「革命運動」の実践に勤しんだ、ということなのだ。

==========覚書終り====================

辛辣な批判である。

一方で、excuseしておかないといけないのは、神戸大学経済学部の有名教授だった(故)置塩信夫氏やLondon School of Economicsの教授だった(故)森嶋通夫氏が「数学的に」証明した(という)

マルクスの基本定理」というのもあるらしい、ということである。

 しかし、確かに物理学にも「超弦理論」というすばらしい「数学的理論」があり、世界の最高頭脳の理論物理学者や数学者がよってたかって研究しているが、(少なくとも)未だ現実の自然現象を予言しそれが検証された、という事実は残念ながらない、ということもある。ただ、「数理経済学」とスーパー・ストリング理論が同列であるかのように扱うのは、ストリング理論に気の毒なようにも思う。物理をやっている者の偏見かもしれないが。

 私は、最初に就職した大学では置塩氏のお弟子さんと同じ学部に属し親しくお付き合いさせていただいていた。

 森嶋通夫氏はこのような定理を証明するほどマルクス経済学にコミットしたので、世界の経済学のエスタブリッシュメントに「いやがられて」、時間の問題と言われたノーベル経済学賞を逃した、という噂もある。付け加えれば、私は森嶋通夫氏を学者として尊敬し、彼の啓蒙書は何冊も読んでいる。全集が出たので、J・R・ヒックスの『価値と資本』の数理的基礎付けを与えたという『動學的經濟理論』(英訳:Dynamic economic theory,(Cambridge University Press, 1996)も読もうとさえしたことがある。これは、フォン・ノイマンの開発したある数学理論を活用しているらしいし、しかも、京大の助手だった20台前半の仕事だった、というのだから驚く。