物理屋の不定期ブログ

読書感想を中心とした雑多な内容のブログ。拙著「量子力学」に関係した記事も含む。

吹奏楽部は体育会系?

 

 私は中学、高校と吹奏楽部に所属しクラリネットを吹いたり指揮をしたりしていた。高校3年生のときには、クラリネットパートはレベルの高い後輩で十分人数が足りていたし、高3になって急に指揮をやりたいと言い出した同級生がいて、彼から低音が足りないから(お前はギターが弾けるから!)ベースをやってくれと言われてコントラバスをやったりした。

中学のときには指導してくださった先生のおかげでNHKのコンクールで全国大会に出たりしたぐらいなので、かなり音楽三昧でまじめにクラブ活動をやっていたと言えると思うのだが、しかし、クラブ活動の時間(朝練と放課後7時過ぎまでやっていた)の少なからぬ時間は体育会系とほとんど変わらないことをやっていたように思う。

 

 吹奏楽だから肺活量が大事ということで、中学校の裏にある農道を通って近くの山までよく走らされた。ロングトーンの練習時間中に曲を吹いていたりしたところを見つけられたら、即座に腕立て伏せ30回とか、4階建ての校舎の階段を下から上までの往復を何回もやらされた。(金管はもっと野蛮だったがここでは書かない。)そしてよく相撲を取った。(私は、クラリネットの練習で「可愛がって」くれた先輩と相撲をして、思い切り投げ飛ばしたりして溜飲を下げていた。)ユーフォニウムユーフォニアム)をやっていた2歳年下の弟は相撲にのめり込んで、双葉山の連勝記録を優に超えるほど連勝を(吹奏楽部の中で)続けていた。この連勝記録は高校になっても続いていたらしい。ちなみに、弟はその後音楽大学を出て中学の音楽教師になって吹奏楽指導三昧の教員生活を送り無事定年まで勤め上げた、ということは彼のために付け加えておこう。

 

 高校に入ると、吹奏楽部内での体育会系活動が一層盛んになった。まず、入学した年。1年先輩のフルートはなんと二人とも男だった。そのまた独りは、半世紀前の筋トレマニア!で、毎朝、片足(!)スクワットをそれぞれ30回ずつだったか50回ずつだったかして学校に来るという人だった。同じ木管だったので練習がよくいっしょになったが、その練習の合間には、片手腕立て伏せを30回ほどしてみせてくれたり、20-30秒ぐらいの高速の50回の腕立て伏せとかしていた。当然、服の上からも分かるほど胸厚で、二の腕は太すぎて、夏などは半袖シャツがはちきれそうだった。水泳も無茶苦茶速かった。この筋肉隆々男がなぜ繊細・可憐なフルートを吹いているのか?、その違和感がずっと取れないままだった。もちろん、彼がフルートを吹いてサキソフォーンのような野太い音が出るわけではなく、ちゃんと、いやちょっと息切れ気味だったか(?)の音が出ていた。

 

 そして、告白すると、私も同じ木管仲間として彼にエライ影響されて、それからは先輩に教えてもらたように、毎日腕立て伏せやスクワットをするようになった。そして高校を卒業するころには片足スクワットが10回ぐらいはできるようになっていた。30回は到底無理だった。 その結果、大学入学後2クラス合同で行った体力測定では、たとえば、腕立て伏せ100回したのは私だけだったと思う。それも100回までしか数えてくれなかったので、100回でやめたのだった。1,2回生ころの私は腕立て伏せ100回以上平気でできていた。

 

 フルートの先輩が築いた体育会系志向は伝統としてすっかり根を下ろし、我が吹奏楽部は半分体育会系クラブのようになった。休憩時間は100メートル走をしたり、相撲を取ったりしていた。其のため、クラリネットの後輩Kの独りはその走力を買われてラグビー部のウィングにスカウトされて活躍したりした。(ラグビー部を指導していた先生は日体大ラグビー部のレギュラーだったという「プロ」。)実は。短距離走は彼とあまり遜色ないと思っていたので、少しうらめしかった。(私は高校のとき、走り幅跳びは5m38cm、垂直跳びは平均69cm、最高72cmだった。残念ながら高校のとき100メートルは計測する機会がなかった。それでも、入試勉強で体力は落ちてしまっていたはずの大学1年生のとき100メートルは12.8秒、2年生のときでも12.9秒だった。)その後輩君Kは進学した東京の私立大の名門ラグビー部でレギュラーになった。

 

 40歳代まではこの体力自慢だったが、気が付くと40歳代後半から50歳代、全くの運動不足になっていて典型的生活習慣病になってしまったのは心外この上ないことだった。今は、こういう思い出記事を書いて運動が習慣となる生活をイメージし、体力維持のできる生活を続けていきたいと思っている。。。